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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

伊藤博文に子分が少なかった理由——金子堅太郎談

伊藤博文に子分といえる存在が少なかったことは同時代の政治家が証言しているところである。

 

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山縣有朋は、「伊藤は善い人だが自分の輔佐の人を得なかった」と評し、西園寺公望は「自分が聡明過ぎておったために人を使ってはもどかしいのであったろうと思われる。それで子分という者がなかったようです」と述べている(『園公秘話』)。

 尾崎行雄近代快傑録 』には次のように書かれている。

 あるとき、身辺の者が伊藤公に向かって、『犬養でも、星でも、彼等には終身離れぬ乾分(子分)が大分ある』と話したところが、公は、『俺はその反対で、乾分を作らぬということが、俺の長所である』と言った。

 

「本当の伊藤の乾兒(子分)といえば井上(毅)・伊東(巳代治)と私位のものでしょう」と語る金子堅太郎は、伊藤の人物試験法が子分の少ない一因であったと断定している。

伊藤の人物試験法

昔、釣鐘鋳りの話を聞いたことがあるが、三井寺の鐘、知恩院の釣鐘は有名ですが、ああいう釣鐘になると大抵三つか四つ鋳るのです。そして釣鐘鋳りは鉄の金槌で以てガーンと叩く、ゴーンゴンゴンと余聲がずっと響いて行くのを聞いている。そしてほかの鐘を今度は叩く、次々に叩いて一番音の冴えた鐘を納めるのです。残ったのは溶解炉へ入れて溶かしてしまう。伊藤公の人物試験はその釣鐘鋳りと同じで、若い者に初めて会うときはガーンと鉄槌をくれる。それにどぎまぎして逃げて帰る奴は駄目だ。ガーンとくれるとそれに反抗してくる奴は使える人物だと伊藤公はいわれた。——『維新と革新』(金子伯に維新を聞く)

 金子自身何度も叱られ”鉄槌”を喰らったという。しかし意見を戦わせることで認められるようになり、「憲法政治により政体は変革するが国体は不変である」という主張にいたっては、反対論を唱える伊藤を説破し、後年の演説で伊藤が自説として主張するほどであった。

 

中田敬義とのやりとり

このような伊藤の人物試験は、傲慢不遜な印象を与え、そのために誤解されることが多かった。外交官中田敬義も伊藤を誤解した一人であった。

 

中田敬義は中国語の通訳官として、伊藤の通弁を担当したこともあった。あるとき、中国のことは大分わかったからヨーロッパの外交を研究したいと考えるようになる。そこで日本に帰国したとき、伊藤博文のもとに赴き、

「これからイギリスへ行って外交の研究をしたいと思い、今日はお暇乞いに参上しました」と挨拶した。

すると伊藤は例のごとく鉄槌を喰らわす。
「なにイギリスに行くって? 貴様は支那の通訳で沢山だ」

この一言にムッとした中田は席を蹴って出ていった。

 

後日、中田は金子に言う。
「君の親分の伊藤という奴はひどい人だ。俺が北京にいるときは通弁してやったのに、イギリスへ来るについては井上さんが骨を折ってくれたんだが、伊藤は支那の通詞で沢山だ、イギリス行きはやめてしまえと言った。実に暴慢不遜な奴だ、再び伊藤の家の閾はまたがぬ決心だ、あんな親分なんか駄目だ」

 

「君は伊藤さんという人を知らぬからそう思うのだ。君が間違っている。支那の通詞で一生を終われと言われたとき、何故食ってかかってヨーロッパ行きの必要を議論しなかったか。伊藤さんはあんな男は三文の値打ちもないと笑っているだろう。実は俺もそうしていじめられたんだ」

と金子が説明すると、

「なるほど君の言うとおりだ。俺が悪かった。出会い頭にあんなことを言われたんでムッとしたが……」
と中田は悔悟し、ロンドンから帰って来てからは、伊藤の崇拝者になったという。後年、伊藤博文の伝記を書いたときも中田は協力したとのことである。

 

伊藤さんが初会で以て傲慢不遜な男と人から誤解され易かったのはそういう点からで、そこが伊藤さんに乾兒の少ないわけでもある。その点になると山縣(有朋)・松方(正義)は違う。どんな書生の意見でも一々ご尤もです、と感服しました。よく考えておきましょう、と丁寧に扱う。そこが山縣・松方に乾兒の多いわけでありましょう。本当の伊藤の乾兒といえば井上・伊東と私位のものでしょう。——『維新と革新』

 

 

 

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