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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

松方正義に死を勧めた大久保利通

明治2年頃、大久保公が松方正義の首を助けたと前回の記事で紹介したが、明治6年にはその松方正義に対して死を勧めている。一見すると正反対の態度であるが、どちらも大久保公の政治信条に反したものではなく、公自身がいかなる態度で政局に臨んでいたかがよく顕れているとおもう。

 

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松方がある老公に語られた直話

 

明治六年秋、内務省が創設せられて以来、政府も随分多事で、征韓論の後は、佐賀の乱、台湾事件、清国談判、あるいは大阪会議等、大久保サンはいつも中心となって活躍され、真に席暖まる暇もない実状であったにかかわらず、その間内政上にも非常に注意を払われ、産業経済の事業について、奨励画策至らざるなく、大いに民力の充実を期するとともに、一面農村の疲弊を憂え、その根本政策たる地租改正の事業に着手せられた。すなわち、都会地方の価値を修正し、かつ幕府時代三百諸侯各藩に於ける幾多不統一の地価を改正し、もって負担の均衡を計り、進んで地租の軽減を断行せんとする大方針を樹立され、ついに地租改正事務局を内務、大蔵両省のあいだに置くこととなり、自ら総裁を引き受けられて、万端の計画準備に取りかかられたのである。

 これは地方によっては、農民の反抗、竹槍一揆を覚悟してかからねばならぬ難事業であり、これに対する大久保サンの態度は実に恐ろしいくらい真剣であった。

 

 余は、当時大蔵省租税頭であったが、一日大久保サンに呼ばれて、政府がこのたび地租改正の事業に着手することになったことについてご苦労ながら余に局長の椅子を引き受けるようにとのお話である。余は局長の仕事はなかなか困難な重任という事を承知しており、それにその頃とかく胃腸に悩み、健康に自信のなかった際とて、大久保サンに、不肖到底その任ではない、かつ近来健康頗る悪く、この上地租改正の難事業を担任するにおいては、第一身体が続かず、死ぬるばかりですとお断り申上げたところ、大久保サンはキッと言葉を改めて、「そんなことで御奉公が出来ますか、お死になさい。死ぬなら本望ではありませんか」と申され、敢えてお聞き入れがない。「お死になさい」の一言に、やむなく局長を承認することになった。

 

それからすぐに新しく役所が設けられ、たしか今の内幸町辺と記憶しているが、誰かの大名屋敷の古い家屋で事務を開始した。従前役人は日本間の畳のうえで座って執務しておったが、大久保サン一日検分に見え、事務室など巡回なされて、畳はことごとく取り去り、イス、テーブルに改めるようお話があった。余はこの立派な日本間を事務室に用いることは少しも差しつかえなきこと、ならびに役人はみな座って執務を好む旨申し述べたが、大久保サンはおもむろに云われるには、

「現時御維新の世の中、地租改正のごとき大改革を行わんとするに際しては非常の意気込みを要し、大改革の気分を以て事に当たらなければならぬ。いわゆる居はその気を移すという事もあるから、些々たる事をも顧みるに及ばず進んでまず改革して決心を新たにすべきである」
と激励され、翌日から畳の間を改め断然イス、テーブルで仕事をすることになり、大久保サンの方針を一同に訓示して懸命の覚悟を促したのであった。
 
 地方では百姓一揆も起こった、種々問題も生じた、随分堪えがたい繁劇の仕事であったけれども、幸いに大久保サンの厳しい督励と部下の堅忍精励とにより大体所期の目的を達成することができた。
それで大久保サンは明治九年の末、地租軽減の建議を出されたが、十年一月に至り、その建議通り地租六分の一を減じ、百分の二分五厘軽減の詔勅が煥発され、大いに民力の休養が行われることになり、ために全国の人心もまた安心したのである。この地租軽減により、政府の歳入は千万円以上の減少を来す結果となったが、大久保サンは同時に大々的に政府の行政整理を断行して歳入出の均衡を計り、さすがの大問題も英断もて見事に完成された。じつにかかる事業は大決心を以て臨みつねに先きんずるの精神にて政治の活機を会得してはじめて遂行することができるもので、当時を思い出し、そぞろ追慕の念に堪えない。云々