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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

幕末の名宰相阿部正弘の言行

幕末の大宰相阿部正弘の言行を『阿部正弘事績』から抜粋し、現代文に改めて紹介。

風采

当時阿部正弘に接した家臣が、その風采について次のように記している。


「身長は中背にして肥満し、色白く、眼涼やかに、髪黒く麗しく、面相つねに春のごとく賑わしく、如何なる塵泥に染まろうとも、王公貴人と見受けられる品格が備わり、殊に仁愛温和の徳は天稟のもので、誰を見てもにこやかに笑い、また言葉は温厚であり、如何なる鬼神も降服すべき容貌である。そうして常に事物に頓着しない大勇があり、衆人が驚駭する異変に遭遇しても、公はいつもどおり泰然としていた。浦賀に黒船が来航したとき増上寺に出張する命があったので、近臣が大いに騒いだけれども、公は平静としていて、そのおかげで一同も静まった。長く顕要(権要)の地を占め、能く人を服従させたのはその徳貌が与って力があったのであろう」

また『開国始末』によれば、阿部正弘は白面温容、四十(実際には38歳の頃の評)を過ぎるにもかかわず少年のようで、(老中首座を譲った相手である)堀田正睦は色黒豊肥とある。

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勤勉

阿部正弘の勤勉さは当時の閣老としては稀少なものだった。一例を挙げれば、毎朝登城のとき、謁を乞い意見を陳べようとする有司が数十人いたが、つねに温顔で彼らを迎え入れ、従容として意見を聞き、対座が長くなっても倦んだ様子は一切見せなかった。阿部は肥満体であったので、その謁見が終わり座を立つと、汗によって座が濡れていたという。

 

また昔から閣老は、目付や奉行に評議を行わせて、その評決をそのまま指令することが多かったが、阿部は自邸に帰ってから必ず評決を熟覧し、己の意見を付けて再三評議にかけることがあった。

誠心

当時外交について議論が紛糾していて、阿部を訪問する藩主のなかには、過激な論調で阿部を詰問しようとするものもいた。それでも阿部は毫も動ぜず、諄々として利害を説いた。相手はその誠心誠意に心を打たれ、激論を続けることができなくなったという。

恭謙


阿部は長きにわたり閣老を務め、年々威権が加わるにもかかわらず、恭謙であり、驕慢なところはなかった。私見に執着せず、よく衆言を容れていた。部下が上申したことに錯誤があるときは、それを指摘して採用せず、ただ小さな誤りの場合は不問に置き、あえて追及しなかった。この度量に部下は感服していた。

 

藩主など、接見を希望する者が毎日いたが、阿部は速やかに彼等を引見して、その意見を傾聴した。そして、つねに次のように重臣を戒めていた。
「官威を仮りて諸藩等の使臣に臨むことなく、また徒らに長時間待たせることなく、つとめて速やかにこれに接見し、温和丁寧を旨とし、其をして言を尽くさせるべきである」

慎重

松平春嶽は、阿部正弘が表情を変えることにおいても慎重だったと述べる。
「おおよそ閣老の一顰一笑はややもすれば、人をして喜憂せしむるものあるを以て、正弘常に自重し、言語を慎み、然諾を重んじ、人の何事かを建言するときは、容易に可否を答えず、熟考ののち採用すべき事はすぐに施行す」と。

宏量

阿部正弘に親しく接した者は、その宏量大度を称えている。大久保忠寛は、
「勢州(阿部)が喜怒を色に顕さないことは実に大臣の度量である。一日、閣老、若年寄退出し、すでに玄関に至っていたが、余は急時をにより呼び返すと閣老ら皆怒気を表情に顕していたけれど、勢州独りだけ異なり、すぐに引き返し、毫も迫ることなく、悠然として余が陳述するところを聴取したのである。このよう言えば、諂諛の誹りをうけるが、実に近世の閣老にして度量といい、識見といい、勢州のごとき人物を見ず。安藤対馬守はまことに抜け目なき人であるのに、喜怒の烈しい性質であって、そのために自殺した人もいる(堀利煕)。また某閣老のごときは「オールコック」と応接して卑屈になり、列席の大小目付が手に汗を握ったこともある。勢州ならば堂々として応接をしていたであろう」

沈毅

急変に処していまだかつて驚駭せず。国家の大事には声色を動かしたこともないのではないが、その憂色を顔に顕したことは死刑が執行される日だけだった。

寛大

阿部正弘は寛大であり、人の過失を責めなかった。かつて他家に贈るため調理した食品を重ねて置いていたとき、近臣が誤って触れ、床上に散乱させてしまった。すでに贈品として用をなさない状態となったので、それを阿部に告白すると、阿部は莞爾として、
「それならばそのままにしてはいられない。一同集まって一杯傾けよ」といい、近臣はその寛大さに感服した。

 

また近臣うちに阿部の髪を櫛けずる者が三人いた。そのうち一人は、とても細心で結髪に時間がかかるため、その者が当番の日は、いつもより早く結髪させた。これは人の知らないことだった。ある日、公務が多端のため就寝するのが遅くなった。家臣が明日の起床時間を訊ねると、例刻よりも早くとのことであり、睡眠時間が短いのでは、と言うと、阿部は、明朝結髪の当番は某なれば時間を要するのだから、予は早起きしなければいけない、と答えた。

仁愛

かつて公事のために蝦夷に赴いて、狼にかみ殺された幕臣がいた。その官長が阿部に届け出たとき、
「それは誤りであろう」と再び捜査することを命じた。
再び届けられた内容は前回と同じだった。阿部はあえて再度調査することを命じた。このとき、使者は悟るところがあって、死因を病死として届け出ると、阿部はそれを受理した。これは狼にかみ殺されたとなれば、その者の家が断絶となるため、病死とさせたのであった。

 

また安政3年、長崎で事件があったため目付の浅野一学に命じて、長崎にむかわせた。使命を終えて帰るとき、途中で病に罹り、江戸についたのち危篤に陥った。そのとき阿部は、浅野の同僚大久保忠寛を使いとして、
「よく療養に勉めるように。公務中重病に罹ったことであるから、子孫のことは毫も憂うことなかれ」と伝えた。一家は深く阿部の厚誼に感じた。

廉潔

賄賂が行われることは古今官界の通弊である。大久保忠寛は、つぎのように述べる。

「幕府のとき賄賂はすこぶる権門に行われていた。余が一日勢州に面したとき、話が賄賂のことに及んだ。余は、諸家賄賂を取らずと言うが、内実は皆行い、たとえ主人が受けとらないとしても、家臣がこれを取るのである、些少たりとも賄賂を取らないものは阿部家と遠藤家のみと言ったところ、勢州は頷き、余が家にては決して賄賂のことあるべからずと思えども、今足下の言を聞いていよいよ意を安んじることができたと言ったが、これは事実であって人の能く知るところであった」

孝養

阿部の実母高野具美子(くみこ)は剃髪ののち持名院と号した。本所石原町別邸に住んでいて、阿部は毎月2、3回は訪問して、物を贈っていたわっていた。他の藩主らが庶母に対する態度と異なり、言語は鄭重であった。重臣がその孝心に感心して、具美子を礼遇すること君家の族人に準ぜんとことを稟請したが、阿部は、
「予の実母であるから自己の孝養は当然であるが、庶母を我が家族と同じように礼遇することは例がないことである」と斥けた。これは阿部が公私の別を重んじ、また謙譲の心から出たものであった。