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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

阿部正弘の死去とその影響

阿部は安政4年4月頃から体に異常を感じはじめ、5月には胸が痛み、そして6月17日ついに病没した。享年39歳であった。

 

このとき鹿児島に帰国中だった島津斉彬は阿部の訃報に接し、
「阿部を失いたるは天下のために惜しむべきなり」と歎息したと伝えられ。

春嶽

松平春嶽は閏5月、城内で阿部の様子を見て、近臣につぎのように語った。

予、今日勢州(阿部)を見たりしに、更に昔日の容貌にあらず、病いと重きに見ゆ(略)。この夏の暑さに堪うるべくもおもえず、ただ今彼人世を早うせば、天下の形勢如何に変り行なんや、公私につき憂はしきことの限りにぞある(『昨夢記事』)。

 

閏5月9日には登城することもできなくなり、数名の医者が診察したが、その病を断定することはできなかった。春嶽も藩医半井仲庵を派遣して、診察させている。半井は春嶽に、重篤であること、しかも漢方の薬ばかりを用い、蘭方の薬を用いないことを報告。それを聞いた春嶽は、蘭方医の診療を受けるように阿部やその側近に奨めたが、阿部はとにかくと言い逃れて取り合わなかった。

後に阿部が語るところでは、近年蘭方医が大いに開けてきたのだが、自分までもそれを信用してしまえば、世の医者すべてが蘭家にもなる勢いを得てしまい、さてはまたその弊害があるだろうと深く遠く慮り、「蘭家の長所は心得給いにけれども、余はよしあしによらず、天下のために、蘭家の薬は服し難し」と言っていたという(『昨夢記事』)。

 

蘇峰はこれについて、「果たしてこの通りとすれば、彼は医科などに対してさえも、調停的態度を把持したるものといわねばならぬ」と述べている。これは前回触れた彼の政治家としての真面目、すなわち調和を重んじた態度が死の間際においても貫かれていたといえる。

 

 

 

彼には最高級といわざるも、高級の聡明があった。しかしてこれを済(すく)うに、最高級の手練を以てした。彼はあらゆる異分子を、都合よく調和して、それを自然に融合せしめ、ある目的に向かって、その力を合一せしめ、その戮協によりて、これに到達せしむる底の手腕の持ち主であった。——『近世国民史35』

斉昭

また斉昭は、誰が閣老になろうと同じことだが、勢州(阿部正弘)は大切な人であると述べ、事実当時薬として珍重されていたマンボウを領地の漁夫に捕獲させ、阿部のもとに届けたり、自ら愛飲していた牛乳を送ろうと申し入れたりしていた。さらに6月7日には、川路聖謨に書翰を送り、自家の調薬法を伝えている。


幕閣に不満を抱いていた斉昭も、阿部正弘が在世中は幕府に牙を剥くことはなかったが、それは阿部が巧みに彼を籠絡したからであった。かつて阿部が斉昭に軍艦製造を委嘱していたころ、勘定奉行が予算に見合わないとして製造の中止を上申したとき、阿部は斉昭を獅子に喩えて反対していた。

猛厲な獅子を憤激させれば、奮迅咆哮かならず多く人を傷つける。ただ毬丸を与えれば、獅子はそれを攻撃して遊び、人に害を及ばさない。老公(斉昭)に造艦の任務を与えるのは、獅子に毬丸を与えて遊ばせるようなものであり、それにより老公の歓心を失わないとなれば、十万二十万金に替えがたいのである(意訳)。

 

徳富蘇峰は、阿部去りて、この獅子は檻中より出で、朝廷と密着し、ついに容易ならざる禍機を惹起した(『近世国民史』『吉田松陰』)と記している。これによっても阿部がいかに重きをなしていたかがわかる。

井伊直弼

阿部正弘の死が一橋派に大きな影響を与えたと同様に、反一橋派の躍進のきっかけにもなった。かつて斉昭に排斥された松平忠固、そして井伊直弼——

かつて阿部は、井伊直弼を評して「一種の人物なり」と述べていた。また、安政元年のころ、ある人が井伊を薦めて入閣させようとしたとき、
「井伊の人となり苛酷にして宰相の器に非ず」と断っていたという(『阿部正弘事績』)。

その井伊直弼は、阿部の重篤を知らされた手紙に、

「さしもの英雄も是非なき次第に候」と返書し、近いうちに参府する旨を打ち明けている。

このようにして公武合体を目指した阿部正弘が亡くなり、安政の大獄を行う井伊直弼が権力をにぎりはじめることになった。