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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

阿部正弘と幕薩縁談

前回の記事で触れたように、将軍家と島津家の縁談が持ち上がったとき、大奥側では側室として迎えるつもりだった。それに反対したのが阿部正弘で、側室という大奥側の意見を取り消させ、無事に篤姫を正室として輿入れさせた。この一件は阿部正弘の事績において、それほど重大なことではないかもしれないが、ここに政治家としての真面目が顕れていると思うので、それについて考察してみたい。

 

 幕薩縁談の政治的意義

まず、大奥の内意を知った阿部正弘は、多紀真楽院(幕府奧医師)を薩摩藩邸に向かわせ、

「(側室という大奥の内意は)あまり失敬な話にて、殊に広大院様御続きを以てのことなれば、薩摩殿(斉彬)の満足せざるは、もちろんのことなり」

と伝えている(島津斉彬侍医東郷泰玄談話『近世日本国民史』)。

これほどまでに島津家に配慮していたのは、斉彬と親交があったことも関係しているだろうが、それ以上に幕府と薩摩の縁談は政治的な意味においても彼の目的に適っていたからだろう。つまり阿部正弘は幕府と諸侯を調和させる目的を抱き、事実そのために尽力していたのであり、そうした意味で幕府と薩摩の縁談には重大な意義があった。まして薩摩は雄藩であり、斉彬は当代一の英傑である。

 

阿部正弘は)我にして薩摩守協力同心して事に当たらば、なおこの国家艱難の秋(とき)を匡救するを得べしと信じたるを以て、さらにますます薩摩に結び、ついにその息女篤姫を以て当将軍家の御台所に立るに至れ離。『幕末政治家』

幕末政治家 (岩波文庫)

将軍家への忠義

さらに阿部は多紀にむかって、将軍家定がご病身であり、今後さらなる難局に臨むのだから、心添えするに御台所でなくては重みがない、ということを語っている。つまり大奥の内意に反対であったのは、島津家に不満を抱かせないことも一つの理由だが、それよりも将軍家定の身を案じていたからで、これらは忠義の念より生じていたのだと思う。

 

阿部正弘の忠節について『幕末政治家』では、家定が将軍の器でないことを知りながらも、「毫末も臣礼に欠」けるところがなく、家定の意志に背くことは断行せず、手厚く「事理を具陳し」、「親裁の允可を待て挙行した」とあり、将軍継嗣問題においても同様だったと書かれている。それというのも家定は病弱で、しかも男女の道を知らないと噂されていたので実子の誕生は望めず、そこで早めに継嗣を定めて、病弱な家定を輔佐(相談役や将軍代理として)させ、また一方では継嗣問題で引き起こされる政争を避ける狙いがあった。そこで最適な候補者とみられたのが英明の聞こえ高い一橋慶喜であったが、家定が慶喜を好んでいないうえに、大奥で水戸の評判が悪いことを察した阿部は、「未だその時機にあらず」と熱心に運動していた春嶽を諭し、慶喜を継嗣にする決断は下さなかった。阿部としては徐々に御養君のことを奏上して、家定が納得したうえで、たとえ円満とはいかずとも軋轢を最小限におさえて慶喜擁立を進めたかったのだろう。これによっても将軍家への忠義が厚く、なおかつ国家の前途を憂えて、時宜を得た善処を心がけていたことが明らかである。

 

阿部の真面目

阿部正弘は八方美人と批判されるむきもあるが、苟合的態度で妥協あるいは譲歩したのではなく、政策を貫徹させる必要から、そして諸侯を幕府に協力させる目的のために各方面との調和をはかったのではないだろうか。

 

阿部が幕政に参加しはじめ、まず手をつけたことは大奥の懐柔だった。これは前任者水野忠邦の失脚から学んだところもあるだろう。なにより寬裕の雅量に富んだ人格と端正な風貌は、大奥の信望を得るに十分なものであった。大奥の内意(側室として篤姫を迎えようとした件)を取り消せたのは、阿部だからこそできたことであった。

同じように彼は慶喜に一橋家を相続させ水戸の歓心を買い、篤姫を輿入れさせることで薩摩の歓心を買い、慶喜擁立によって諸侯の歓心を繋ごうとした。そうして幕府と諸侯の結束を固め、その後に公武合体を目指し、挙国一致で外交問題にあたろうとしていた。この大計画は安政4年に歿したため果たせなかったが、彼の人格が政治に影響を及し、さらには国家の遠計に通徹していたことは驚嘆すべきことだろう。ここに彼の真面目があり、幕薩縁談でそれが発揮されたと思われる。