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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

篤姫入輿と将軍継嗣問題

徳富蘇峰は幕府と薩摩の縁談が持ち上がったことは将軍継嗣問題のためでなかったことを看破していた。そして芳即正氏が安政元年頃に書かれた「御一条初発より之大意」をみつけたことでこの縁談が嘉永3年に持ち上がっていたことが判明し、それによりこの縁談はそもそも将軍継嗣問題のためではなかったことが明らかになった。

島津斉彬 (人物叢書)

「御一条初発より之大意」によれば、家定の二番目の夫人が亡くなって間もなく、つまり嘉永3年、十一代将軍家斉の御台所広大院(島津重豪の娘)の元女中から斉興か斉彬に年ごろの娘はいないかと島津家側に問い合わせてきたということである。

 

嘉永3年となれば斉興が未だ隠居せず、斉彬は42歳でありながら世子の身分*1であるころで、しかも前年には「高崎くずれ」が起こっている。また家定も世子の身であり、将軍に就任するのは3年後の嘉永6年である。

 

島津家に申し込んだ理由

 

徳川家定は家慶と本寿院の子で、これまで鷹司家、つぎに一条家の娘と結婚し、ともに死別した。あとの夫人が嘉永三年六月亡くなってから、本寿院らは早速夫人選考をはじめたが、公家の娘にはこりたらしい。そして七年前に亡くなった家斉未亡人広大院の家系繁盛をみて、島津家から夫人をむかえたいと思い島津家に申しこんだ。——芳即正『島津斉彬

 

家斉未亡人広大院とは、斉彬の祖父島津重豪の娘・茂姫のことで、彼女は寛政元年家斉の正室になっている。二人のあいだに生まれた敦之助は早世したものの、その後家斉の側室をまとめあげ、家斉と側室のあいだに生まれた52人もの子供を養育した女丈夫だった。そのうえ、当時広大院の弟やその子女で、大名や大名の正室となったものが十五人もいて健在だったことなども縁談申し込みの理由となったようだ(『島津斉彬』『天璋院篤姫のすべて』)。

阿部正弘松平春嶽の周旋

以上のように縁談の話が進んだのであるが、薩摩側では候補者の選定に難航したようであり、種々の曲折を経て斉彬の叔父である島津忠剛の娘・一子(後の篤姫)に定まった。しかしその後、家定の側室として迎えようとしている大奥の意向を知らされる。これには斉彬も「御部屋(側室)にということなれば、御内願は取り消すべし」と考えた。それを止めたのが斉彬と親交のあった老中首座阿部正弘であり、「取り消し願いを控えよ」と、ともかく縁談を進めておいて、一方で大奥方面にも働きかけて側室の話を取り消している。しかも多紀楽真院(幕府奧医師)には、正室と迎える理由の一つとして、
「越前(春嶽)の意見(慶喜擁立)をうまく運ぶためにも御台様でなくてはいけない」と洩らしている(島津家の老女園川の親話『近世日本国民史35』)。

 

側室の話がでたのは嘉永5年ごろであり、春嶽が慶喜擁立を考えはじめたのは嘉永6年だと『昨夢記事』に記されているので、辻褄があわないが斉彬の侍医東郷泰玄も同様のことを述べているので、あるいは家慶在世中から慶喜擁立の意見が春嶽のうちにあったのかもしれない。ともかく、春嶽もこの縁談のために周旋しているが、その目的の一つが慶喜擁立の便宜を図るためだったとは言うまでもなく、蘇峰は幕薩の縁談と継嗣問題には暗黙裏に「交換条件」があったとみている。しかもそれは徳川斉昭も同様だった。

 徳川斉昭が妨害しなかった理由

斉昭が篤姫入輿に不満を洩らし、その不満を和らげるためにも斉彬が将軍継嗣問題に関わらなければいけなくなったと以前書いたのだが、蘇峰はこの事情を次のように推察している。 

水戸斉昭が心中大不平であったが、表向きこれが反対を唱えず、その成立を積極的に妨害しなかったも、その愛子(あいし)慶喜を西城に入るるための諒解があったためではあるまいか。——『近世日本国民史35』第14章 幕薩結婚問題)

その黙契を証左するものとして斉昭の密書を示している。

 水戸斉昭が、東照宮の敵たる薩州の陪臣の女を将軍の御台所とするは怪しからんなどと、内証に不平を唱えつつも、表だって反対しなかった理由の一は、恐らくは一橋擁立との交換問題のためではなかったであろうか。もとより島津斉彬から、もし斉昭がこの結婚に邪魔しなければ、一橋立儲に尽力すると約束書を交換せざるまでも、少なくとも以心伝心にて、その意味合いを斉昭に嗅がせたのではあるまいか。それにはいささか心当たりの証拠がある。

 一 三台(御台)に致し候はば、一(一橋)の為には宜しく候ても、薩がまた恩にかけて、天下の害を醸すべき哉と察せられ候。(烈公親書)

これは安政二年――その月日は不明――水戸斉昭が親信の戸田、藤田両臣に与えたる密翰の一項だ。されば結婚の目的は、畢竟一橋慶喜を、西城に入るる予備行為であるとの意味を薩摩側から水戸側へ、それとなく通じたるものであろう。されど斉昭は、安政二年頃までは、なお擁立の恩を、薩摩がきせて、天下の害を醸すであろうとの懸念をしていたるものと思われる。しかし大勢もはや如何ともする能わざるに際しては、斉昭も余儀なく一橋擁立のことを空頼みとしてしばらく降心したものであろう。——『近世日本国民史』第15章 松平慶永の一橋擁立運動

以上のように幕薩結婚の発端は将軍継嗣問題と無縁であったが、篤姫入輿のときには、一橋擁立とは切り離しては語れない一事件となっていたわけである。斉彬としては琉球問題など薩摩の諸々の事情の便宜のため、阿部としては斉彬と春嶽の歓心を繋ぐ意味もあり、春嶽と斉昭としては慶喜擁立の「交換条件」としてこの婚儀に協力していたわけである。そして紆余曲折がありながらも安政3年家定と篤姫の結婚となる。この成婚は阿部の政治力に負う部分も大きかったと思う。そしてその阿部の急死のために、もう一つの目的、慶喜擁立は果たせなかったといえるだろう。

*1:翌年の嘉永4年に襲封