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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

大隈重信による木戸・大久保・西郷評――『大隈侯昔日譚』

明治時代

大隈重信維新三傑にしばしば言及しているが、木戸や大久保を称揚する一方で西郷については冷評していることが多い。『大隈伯昔日譚』(明治二十八年)では「政治上の能力は果たして充分なりしや否やという点については、頗るこれを疑うのである」と語り、そのために壮士輩が談判を迫り、脅迫状が届いたという。それでも大隈は発言を訂正せず、その後の座談でも西郷の「感化力」は認めながらも批判的である。しかし最後の筆録となった『大隈侯昔日譚』(大正十一年)にみえる西郷評は同情的な傾きがあり、木戸・大久保の人物評とあわせて一つの参考になると思う。

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木戸ー大久保ー西郷

ワルソー客舎の一夜

英雄豪傑は油絵のごとく

由来英雄豪傑というものは油絵の如きものである。遠くから眺むるとなかなか立派であり、後世から見るといかにも英雄豪傑のごとくに見ゆるものであるが、これは寧ろ世人が偉そうに賞め立てたり、書き立てたりして英雄豪傑にしてしまうので、その時代に同様に相接していると、やはり一個の人間で、長所もあれば短所もあるんである。

皆群山連峰

 いわゆる維新の風雲に際会した豪傑連中は、みな群山連峰で、いづれをいづれという別段に傑出した大英雄もないが、幸不幸はいずれの時代でも免れないもので、表面に現れた人と、現れなかった人とがある。木戸、大久保、西郷、この三人はすなわち表面に現れて英雄豪傑にされた人々であるが、その性格は悉く三人三様でだいぶ違っているかがしかしいずれも皆、時代の精神を代表して現れたものである。

木戸の風流韻事

 木戸はいずれかといえば、奇才縦横、雄弁滔々という風であったが、しかし極めて、正直真面目で、誠実な人であった。趣味も豊かで詩も作れば歌も詠む、風流韻事もなかなかやったもので、そのほうの逸話は木戸にはなかなか豊富である。だから大久保に比べるとだいぶ陽気ではあったが、一方にまた非常に感傷的なところも多量であったから物に触れると直ぐに感じて将来を憂うる方で、それに洋行して帰ったことでもあり、非常に進歩主義で保守を破ろうとしたが、意のごとくならずして常に怏々としていた。これは一つは物に感じやすい多感多情な男でもあったからである。

多感多情の遊子の想い

 なんでも木戸が岩倉大使に随って伊藤等と欧州を漫遊した際、露国を訪うの途次、波蘭ポーランド)を過ぎりワルソー(ワルシャワ)に宿ったことがある。一夜この多感多情なる維新の功臣は、客窓に寄って独り遊子の想いに耽っている時、いわゆる「誰が家の玉笛ぞ……」で、折から水のごとく冷ややかな月光を縫うて、いずこよりか漂い来たる哀調を帯びたる楽の音に、涙潸然(さんぜん)として天地を寂寥を感じたということである。これは杜甫の詩にある「商女は知らず亡国の恨、江を隔てて猶お唱う後庭花」で、烟り寒水を籠め月紗を籠むる秦淮江東、たまたま酒家に近き処に船を泊すれば、客の相手の商女は何も知らず歌っているけれども、河の向こうから響き来るその哀調は、すでに亡びた陳廷の玉樹後庭花の曲を伝えて、嫋々(細く長く響く)たるその余韻に尽きせぬ亡国の恨みが宿るという杜甫の詩情そのままに、栄枯盛衰の理を目の当たり表している波蘭の廃都において、月夜この旅情に接して遠く故国を離れたる天涯万里の遊子、愛国の至誠に燃ゆる多感の士が、思わずもそそぎたる一掬の涙であった。

祖国の前途を憂う

 木戸が、この月明波蘭の客舎における一掬の涙は、単なる児女の情ではなかったんである。波蘭の悲惨なる運命を偲んでは、思わずも遥か祖国の前途に思い及んだんである。木戸の詩の中にも『邦家の前途容易ならず』とあるだろう。時はあたかも王政維新を去る幾ばくならず、封建の余を受けて民心未だ安定せず、内憂外患ならび迫る国情を前にして内には薩長の強藩相疑い相争うている。波蘭亡国の原因が朋党内に相せめぎ、各々敵国を引いて自家を強むるに急なりしにあるを知って、悚然(しょうぜん)自ずから禁ぜるものがあったんである。帰来最も意を教育産業の充実普及に注ぎ、さきに征韓論の首唱者たりし者(木戸は維新前に征韓論を唱えていた)、転じて非外征論者となったのもこれがためである。吾輩は欧州大戦後列国興亡の気運を察して波蘭の復興に想い及んだる時にはからずもこの木戸の話を思い出したと同時に往年この多感の士をして泣かしめたる波蘭は、愛国の至情を奮い起こし、ふたたび独立したが、その人今やすでに亡し、しかして『邦家の前途容易ならず』の彼が感懐と今我国情果たしていかん、誰か解せん英雄の恨みで感慨轉(うた)た無量なるものがある。維新前から木戸の話ならいくらでも物語(ロマンス)があるが、ここにはこれで略すとする。

意思の人と、自然人

大久保の剛腹

 木戸のこの多感多情で進歩主義なるに対して、大久保はあくまでも剛腹で時流に投じない。ちょっと見ると保守的に見えるが決して普通の頑迷不霊の保守者流と同様ではない。非常に意思の強い勝れたる政治家であったから、ひとたび自己が是なりとしたことは、いかなることあるとも通さねば止まぬという、マア剛腹という方の性格であった。喜怒哀楽を面に表さない、寡言沈黙、つねに他人の説を聴いているが、一度「よかろう」と言ったら最後、他人がなんと言ってもきかぬ。なかなか辛抱強い男で、その代わりこのために陰険だなどとの批評を受けたこともあるんである。だから道楽も少ない男で、木戸のように風韻に富んだ逸話珍談はない。

木戸は情的

 要するに大久保は意思の人で、木戸はどこまでも情的な人であった、多感多情の木戸が先帝に供奉したまま、京都の客舎に千歳の恨みを残して長逝し、剛腹な意思の人大久保が壮士の刃に斃れたる両人の最期にも、どことなく、これが現れているようである。

王政維新の大人物

 なんにしても王政維新の大業には両人とも欠くべからざる大人物で、時々衝突もしたが、互いに譲歩もして、死生の巷に立ってあの大業を成就したんである。明治十年頃までは殊に木戸、大久保が政治の中心人物であった。マア大久保は英国流で木戸は米国流――ちょっと純粋の米国型とも違うが――で、とにかく両々相まってあの大業を成したんである。
 大久保が非常なる決断力を発揮して改革の衝に当たり、猛然として進んだる元気は熾(さか)んなもので、この人なければまた維新の改革に困難を感じたことは尠(すくな)くない。しかし一方に木戸の功労もまた非常なるもので、大久保の上に出ずるとも決して下るものではなく、いずれをいずれと測定することはできぬがいずれも時代を代表したるものとして、差しつかえないと思うんである。

西郷は破壊の勇者

 その間にあって西郷は自ら性格が両者とも違う。西郷は破壊的で建設ではない。すなわち破壊の勇者で建設は不得手であった。政治は建設的で破壊は力である。だから長き強き封建を破るという破壊的維新には、西郷の力与って大いに力があったが、復古で目的を達した後は浪人してあまり政治には関係しなかった。そのまま猟でもして余生を養ってときどき陛下の御諮問にでもお答えする位にしていたら間違いは無かったんであるが非常に情に脆い涙弱い人であって、乾兒(こぶん)が沢山あったからついに乾兒に誤られたんである。勇者は強者には強いが柔に出逢うと溶けるんで、流石の西郷も乾兒どもには弱かったんである。この情に脆い結果が西郷の徳をして盛んならしたと同時に、一方生涯の過ちを惹起したと察せられるんである。これは一つには政治家としての性格でもない、軍人としても戦術家ではない。政治家でも軍人でもなし、一個の自然人で、ただどこまでも忠義一途なんで、国家の為となると、将軍も島津公も眼中にない。少しも私心無き卓越したる英傑であった。維新前後にはこの種の人が多少は現れたが、古今には甚だ少ないんである。

斉彬、東湖、潜庵の感化

 島津斉彬公の感化を受け、のち水戸に使いするや藤田東湖に接して水戸派の大義名分論をきき、これに交わって、東湖の人格に感化せられ京都の春日讃岐守の陽明学派の門に入り知行合一を体得し、一度び実行に取りかかると成敗はさらに顧みなかった。将軍廃止を猛烈に高唱してついに身を置くところなく、薩摩の海に投じたり島に流されたり、なかなか小説的(ロマンチック)な一節もあった。その間に陰になり日向になりこれを救うたのは大久保で、然らざれば或いは殺されていたかも知れぬ。
 大人傑は生まれながらにして人と異なるが、ついに城山の露と消えたのは惜しみても余りあることである。

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