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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

堤正誼談「橋本左内」――中根雪江や西郷隆盛の口まねをしていたことなど

橋本左内と同年に生まれ、ともに藩学明道館の幹事を務めた堤正誼が『橋本左内言行録』で談話を述べているので要約して紹介する。

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橋本左内の身長と容貌

橋本左内の身長は五尺(151.1㎝)で色が白く痩せて優しい婦人のような容姿だったことはよく知られているとおりだが、その眼は雷光が発せられているかのように輝き、胆略は人に絶していて、早くから常人とは異なるところがあったという。とりわけ言葉遣いにいたっては四十を超えた大人(たいじん)のように老成していたそうである。

 

普段は謹厳寡黙ながら、国事に関する議論になると鋭い弁舌で論難攻撃し、単刀直入に人の肺腑を刺し、決着するまでは夜を徹してもやめず狂風怒濤のごとき勢いをもって争論していた。このように人の下風に立つことを好まない性質があったために後年奇禍を買うようなことになったのだろう、と堤正誼は語っている。

 

少年のころから非凡常人なところがあった

左内は14、5歳の頃から小塚原の露と消える26歳までのあいだ一日たりとも読書を廃したことはなく、食事するときも膳のそばに書物を置いて勉学に励んでいた。

 

蘭書中の兵学、天文、地理、数学など実益ある書物を渉猟し、空理空論を好まなかったようである。愛読した書物は浅見絅斎(あさみ けいさい)の『靖献遺言』で、つねに座右に置き外出するときも携帯するほどだった。

 

読書家であると同時に筆まめな人で15歳のとき「啓発録」を著したことをはじめ、国事に奔走していた間にも「館務私記」「日記」「諸事彙纂」を記し、さらに「黎園遺草」「黎園遺稿」、書簡二百余通が遺されたそうである。また松平春嶽から田安黄門に送った直書の代草、幕府に差し出した願書の代案、尾張公に送った機密書類の代筆などいずれも皆左内の手を煩わしたものだった。

 

橋本の下駄の音

左内の威厳は「橋本の下駄の音」というエピソードで語られている。左内が小姓頭として藩公に仕えていた頃、毎朝裏庭を通って出仕していた。それで裏庭の方から下駄の音が聞こえると小姓連中は、
「それ橋本が来た、下駄の音が聞こえる、静かにせえ、静かにせえ」と一同粛然として容(かたち)を改めそうである。

 

中根と西郷の口まね

 「下駄の音」のエピソードからもわかるように左内は謹厳端正で、知らず知らずのうちに人を圧し、親しむべく馴れるあたわざる人物だった。しかし決して四角四面の厳格な人ではなく、ときおり冗談や洒落などを言って周りを笑わせていた。左内の塾僕をしていた加藤斌は、

「先生は他人の応接振の真似などなかなか上手で、なかんずく中根雪江と大西郷の口まねをしては笑っておられた。中江は他と話をするのにいつもウーウーと返事をする、西郷はエーエーと返事をする、そのウーウー、エーエーがいかにも目立って可笑しいといい、退屈になるとその真似をして笑っておられた」

と語っていたという。少年のころは猫の啼きまねを得意だった彼が、後年は中江と西郷の口まねをしていたというのは面白い。 

座右の銘

橋本左内座右の銘は、

高居而遠望深視而審聴

の十文字だった。これは『六韜(りくとう)』の中の一節で「高きに居りて遠くを望み、深く視て審らかに聴く」という意味になる。これが左内の理想だったという。