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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

「橋本左内の思い出」佐々木長淳談

幕末・維新

明治時代に殖産興業のために尽力した佐々木長淳(ちょうじゅん/ながあつ)は、幼いころから橋本左内と親交があった。長淳が78歳のときに語った橋本左内の思い出が『橋本左内言行録』に載せられている。左内の人物像を知る貴重な証言なのでここに要約して紹介する。

幼少の頃


佐々木長淳の母方の実家(鰐淵氏)から春貞*1というものが橋本家の養子に入っているので、佐々木家と橋本家は親族の関係であり、自然長淳と左内は幼いころから親しくしていた。

左内は幼少のころから温厚な性格であり、やや紅味のある色白の肌で柔和な顔つきをして眉尻はすこし上がっていた。志気は豪邁で、英才の誉れ高かい少年だったという。

 

小才があるようにみえたため、あるものが左内を嘲弄して、
「左内、お前は何が上手じゃ」
と訊いたところ、
「私は猫の鳴き声が上手である」
と左内は答えている。

 

また橘の実が大好物で、佐々木家に来ると「橘が食べたい」と言っていたという。

12、3歳のころには政治家を志していた

12、3歳のときから国の将来について語るようになる。

「日本が外国と肩を並べるには、国を富強にせねばならぬ。我は医家に生まれたけれど、政治をやらねばならぬ。鉄さん(長淳の幼名)は工業好きじゃ、どうでも産業をふやすことをするがよい」 

左内がはやくから大志を抱いていたことはもちろん、長淳の資質を見抜いて適切な助言を与えていたことも驚嘆すべきことだと思う。幕末の長淳は西洋式の鉄砲や大砲の製造に携わり、国内初の自転車を作り、明治維新後は製糸業の発展に寄与している。

中根雪江と橋本左内

またあるときは、

「国のための話は医者ではできず、国の将来を思えば、これまた政治をやらねばならぬ、たとえ命が縮んでもよい、これを実行するには、隣の雪江様へ話して下さらねばいかぬ」

と語っていた。

 

そこで長淳が中根雪江(福井藩執政)のもとへ行き、左内の志を伝えている。しばらく思案顔をしていた中根だったが、別の話題に変えたという。

 

またあるとき中根が、
平田篤胤は豪傑じゃ、八人と対話してよくその話の要領を聴き分けて応答する。されば一人との対話には、何か働きがなければ、時間が惜しい」

と言った。それを聴いた左内は、誰かと話すときには紙を捻ってヨリコ(?)を拵えるようになり、働きながら対話することを実践していた。

柔和な態度

左内が柔和な態度を心がけていたのは、ナポレオンの姿勢から学んだものだったという。

「ナポレオンは英雄であるが、人と接するや婦人のごとき柔和にてありしとのことなれば世の大豪傑は人と接するに和らかなるが肝要で、癇癪を現すようでは、とても何事も成功はせぬもの

(左内が柔和な態度を心がけていたとはいえ、謹厳端正な人だったので小姓仲間からは非常に恐れられていたという話がある)。

 

国事に奔走していた頃

西郷を訪問

こうした左内の柔和な態度は、三尺(約151㎝)しかない体躯や女性のような顔立ちと相俟って、当初西郷に見くびられていたといわれる。『実歴史伝』には、左内が薩摩藩邸を訪問したとき、西郷はしばらくほったらかしにしていたというように書かれている。

この『実歴史伝』の記述については海音寺潮五郎氏が、矛盾点をあげて眉唾物だと指摘している。それなので、おそらくは海江田信義が『実歴史伝』で語ったとおりではなかっただろう。しかし薩摩藩邸を訪問したとき左内がしばらく放置されたのは事実らしい。


長淳が江戸にいた頃、左内と同室で生活していた。このとき左内が西郷を訪問したときのことを語り、何か遊戯のために長く無駄に待たせるので、
「大事なる国の話をするに、慰みごとに心を寄せられるは如何に」と言い放つと西郷も閉口して、その無礼を謝したという話を聴かされたという。

 

蘭書を書き写す

同じ頃、長淳は左内と協力して蘭書を写し取ったことがあった。

斉彬と春嶽が江戸城で語りあっていたとき、
「オランダ新製の野戦砲12ドイム口径コロニヤールカノンの原書が、今般手に入った」と斉彬がいうと、
「これは何卒、原書を拝借したい」
と春嶽が頼む。

「貸すことはなりがたし」
と斉彬が返答したので、春嶽は「家来のうち橋本左内と佐々木権六(長淳の旧名)とを遣わして写させたい」と申し込んだ。

斉彬はそれを承諾して、
「井上正太郎に万事申しつけおくから、これに掛け合ってみたまえ」と約束した。

 

それから二週間、常盤橋の越前藩邸から芝七曲りの薩摩藩邸に通って、首尾よく写し取ったという。


左内の肖像画


左内が歿後してから七年経ち、左内の母が長淳に肖像を描いてほしいと頼んできた。とても真に迫ることはできないと長淳は断ったが、
「『その似ると』『似ぬと』は申す限りでない、無二の親友の筆に成りたるものとすれば、彼は地下に満足せし」
と懇願されたため、左内の母と弟の写真の骨格を基礎にして描き上げたという。
「ようやく描き上げたので間違いがありがちだと思って欲しい」
と長淳は述べていてる(橋本左内を知る古老のなかには似ていないと言ってるものもいるらしい)。

 

 下記サイトに佐々木長淳が書いた橋本左内の肖像が掲載されている。

福井県文書館 初級講座・専門講座 2013年度

 

啓発録 (講談社学術文庫)

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*1:文政4年7月9日、26歳にて病没

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