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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

斉彬に重用されてからの西郷隆盛の活動

安政三年、西郷隆盛は本格的に重用されはじめた。

 七月九日には斉彬から書状を託され水戸へむかっている。これは徳川斉昭への書簡を届けるだけではなく、書面だけでは伝えきれない秘事を水戸藩の重臣に授けるきわめて重要な任務だった。

 

徳川斉昭の活路を開こうとした斉彬

前年(安政二年十月二日)、安政の大地震があり、水戸藩の重臣・藤田東湖、戸田忠敬が急死している。西郷がこの二人を尊敬していたことは以前述べたとおりである。それゆえ訃報に接した彼は肩を落とし、樺山資之への手紙でつぎのように述べている。

去る二日の大地震には誠に天下の大変にて水戸の両田もゆひ打に逢われ何とも申し訳無き次第に御座候。噸とこのかぎりにて何も申す口は御座なく候。後遙察下さるべく候。――樺山三円(資之)宛書簡

当然ながら徳川斉昭にとっては大打撃であった。それまでの斉昭の方針は、東湖の主張に戸田の意見を採りいれたものであったが、二人を失ったことで斉昭は時勢にそぐわない旧説に固執するようになってしまう。

「二田の死後は大いに真面目を変じ烈公(徳川斉昭)もまた昔日の観なきがごとく」
と西郷が嘆じたほどだった。

そこで斉彬は西郷を水戸に送り、斉昭を書簡で慰め、水戸藩の重臣に機密を授けて活路を開かせようとしていた。(『大西郷正伝』)

農政について意見を求められる

同じ頃、鹿児島の郡奉行・相良角兵衛の意見書が江戸に届く。

この意見書では、久しく検地が行われていないため、上田で安いところもあれば、下田で高いところもある不公平な状況が生じているので、検地を行い租税制度を公平にして農民を救済しなければいけない、ということ述べていた。

 

斉彬はこの意見書を西郷に示し、意見を求めている。意見書を熟読した西郷は、『農政に関する上書』を斉彬に提出し、検地を行っただけでは救済できないと相良の建言に批判を加える。

 

『農政に関する上書』の大要は、検地を行い農民を救済することは至極結構であるが、役人の心が改まらずに検地を行っても詐術を弄して私腹を肥やすだけである。当今の急務は検地を行うことではなく、人傑の士を抜擢し、士風を匡正し、廉恥を励まし、満潮の人心を一新することにあると述べている。(『大西郷正伝』、『西郷南洲選集』)

それに続けて升目、移民のことなどを詳述している。西郷は郡方書役として農政に関わっていたこともあり論旨は明快で、さらに斉彬の信頼を得ることになる。

将軍継嗣問題へ

安政三年十二月には、篤姫が将軍家へ入輿(じゅよ)。このとき西郷が調度などに関わったという説もあるが、確実な証拠はないという。

 

この縁組みに不満をもった人物の一人は徳川斉昭だった。彼は松平春嶽への書で、

東照公の敵たる薩の臣下の女を夫人となし、大将軍の実母その他をしてこれに低頭せしむるは国家の大変である。かくなりては、万一将軍職を他家に命ぜられるるも異議を挟むこと能わざるべし。実に憂慮に堪へず。

と述べている。 実際、この一事のために斉彬と斉昭のあいだに不和が生じてしまう。これは斉彬にとっても意外であったにちがいない。斉彬は篤姫の入輿に際して、一橋慶喜(斉昭の第七子)を継嗣として立てることを承諾させていたのだから。

斉彬は英明なる慶喜を将軍にして幕政改革をおこなう目的だったが、斉昭の不満を和らげることも将軍継嗣問題にかかわった理由のひとつになったといわれる(『大西郷正伝』)。

そして西郷は後年自ら語ったとおり、一橋慶喜を将軍に立てるため命を捨てかけて奔走することになる。

 

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