西郷従道の人柄と処世訓
鹿児島出身であり福沢諭吉に親炙した山名次郎は、国民協会を創設したころの西郷従道とともに各地を歩き、その人柄を深く観察することができたと『偉人秘話』で述べている。
西郷従道の人柄
元来(従道)侯は、容貌魁偉躯幹雄大にして、つねに顔色艶々しく、いつも落ち着いて余裕ある顔をし、かつて窮迫した態度を見たことがなかった。殊に非常の窮地に陥ったときにも少しも動ぜず、余裕綽々たるは侯の一大特色であった。
おそらく西郷従道が、その生涯においてもっとも困窮した事件は西南戦争だったにちがいない。西郷隆盛が薩軍を率い熊本城を包囲したとき、その進退に注目が集まっていた西郷従道は泰然自若として、「阿兄と戦場にまみえんのみ」と語り、内心はともかく外見上には窮迫の色がなかったと伝えられている。
このように西南戦争のときですら動揺しなかったのであるから、他の事件においても余裕綽々であったことは想像に難くない。
つづいて同書では礼儀に厚かったと述べている。
人に対するに実に礼儀厚く、仮にも粗末な口の利き方はなされなかった。吾々書生にまでも「山名さん」と呼びかけられ、国民協会で地方を歩かれるときでも「オイ、コラ」ではなくして、誰にも「あなた」で話をされた。言語態度の柔らかく丁寧なことは、南洲翁(西郷隆盛)もしかりであったと聞いているが、侯において一層その優しさが見られるように感ぜられた。
処世訓
さらに山名次郎は西郷従道から聞い処世訓としてつぎの三つをあげている。
- 人間は出世しようと思うなら、人の嫌うことを率先してやらねばならぬ。
- 人間は人と衝突しまいと思うなら、真正面から衝突するつもりで行かねばならぬ。
- 人間はあまり物を考え過ぎてはいけない、いい加減に断行しなければいけない。
人の嫌うことを率先して行う
大隈重信を辞職させるときなどは、「人の嫌うことを率先して」行っていた一例となるのかもしれない。
明治14年、薩長人は大隈を辞職させなければならぬと思いながら、誰も直接言い得る人物はいなかった。このとき西郷従道はその難役をみずから引き受け、
「我が決心容れられずんば我死すのみ」
との決心で当たった。この一大決心を見て取った大隈は、すぐに従道の勧告を承認したという。
衝突する覚悟
「人と衝突しまいと思うなら、真正面から衝突するつもりで行かねばならぬ」というのも、大隈を辞職させるときの決心にあらわれている。また非常時に処する心得として、
「非常時に際しては、一大衝突をする覚悟で突進して行けば、先方が避けて、決して衝突は起こらないものである」
と山名に語ったという。
考え過ぎずてはいけない
「人間はあまり物を考え過ぎてはいけない、いい加減に断行しなければいけない」との言葉は大久保利通の「熟慮断行」と背馳するようでもあるが、これは物を考え過ぎる伊藤博文を見て思ったことだろう。
「伊藤さんは非常に物識りで偉い人ではあるが、非常な大事件が起こると少し頭が狂い勝ちであった」
と惜しむように語っていたという。
天津条約のとき開戦論を抑えきれなくなった伊藤を支え、「一層のこと支那にお出かけなさい。私も一緒に行きましょう」と副使を買って出て、責任を一緒に負うことを約束して李鴻章との交渉に臨んでいる。北京にむかうときの船中には議論家が多く、そのため議論百出していたのだが、従道は一切の議論は自分を通してから伊藤に伝えるようにして、伊藤を煩わせないように配慮していた。西郷従道が亡くなったとき伊藤は、「あの人は私の恩人だ」と口にしたという。
また山名が述べるところによれば、薩長の人物*1で政党を組織したのは従道が第一番だったとある。そして、本来ならば憲法編成の率先者である伊藤博文が政党を組織するはずであるのに、それより先に軍人出の従道が組織したとのことで、このあたりにも慎重になりすぎずに断行する哲学が見られる。
以上の事実により従道が西郷隆盛に劣らない偉人であったことがわかるとおもう。そしてある面においては、大西郷以上の魅力がそなわっていたらしく、
観樹将軍・三浦悟樓は、
「確かに侯は南洲翁よりも偉い人だった」
と述べ、土方久元は、
「南洲翁の如き型の人は再びでるかも知れぬ。しかしながら従道侯の如き人物は二度とでないであろう」と語っていたそうである。
また西郷隆盛と比較することなくその人物を観察できたでろう李鴻章は「彼は神様が人間に化けたような人物である」と従道を評していた。