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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

大久保利通と中江兆民

ルソーの『社会契約論(民約訳解)』を翻訳したことで知られている中江兆民(篤介)は、明治4年に政府留学生として渡仏している。

中江兆民が留学できたのは、大久保利通に海外で学問する熱意を訴えたからだった。

中江の熱意

土佐藩足軽であった中江は、大久保との面識はないものの、政府の要路にあたる大久保ならば自分の留学の志を聞き入れてくれるだろう、と大久保邸を訪問した。

 

しかし紹介状がなかったため、玄関の取り次ぎに面会を断られてしまう。それでも中江は屈せず訪問し続ける。が、七度も訪問したにもかかわらず、相変わらず拒絶されるのみで、中江も心が折れかけていた。

 

このままでは取り次ぎに遮られるのみだと考えた中江は、出勤前の大久保に直談判することを考える。邸宅の近くで待ち伏せし、馬車がでてきたとき後方から声をかけて馭者を止めた。

そして車中の大久保にむかって、

「洋行のお願いがあって七度も訪問したが、いつも取り次ぎに遮られ、未だ閣下に面謁することが出来なのものであります。私の宿望の成否の如何にこだわらず、一度は願意をお聞き取り下さい」

と、真剣な表情で語る。

 

それを聞いた大久保は、中江を車中に招き入れ、詳しく話を聞いた。

一通り聴いたあと大久保は訊ねる。

 

「君の出身地はどこであるか」


「私の郷国は土佐であります」

 

「それならば、なぜ同郷の後藤、板垣等に計らなかったか」

 

「私はいたずらに同藩の縁故、情誼をたどることをいさぎよしとしません。また他の紹介を求めるを欲せず、一に閣下の知遇に依(よ)らんとするのみであります」

 

「君の意はよくわかった。一応、後藤、板垣等に相談しよう」
と大久保は言って、中江を降ろした。

それから間もなく、司法省からフランス留学の命令が中江に通達された。


中江は、車中で大久保と話しているときの模様を、
「大久保公は、余の願望に対して何ら諾否の言葉を与えられなかったが、公の心中には、すでに許可の意見を持っておられたことが想像されたのである。余は、大久保公が国家のために広く人を求めるに意を用いておられたことを、深く感動したのである
と人に語っている。

大久保の気遣い

明治7年にフランスから帰国した中江は、帰朝復命の挨拶と留学中の見聞について陳述するため、大久保のもとを即座に訪問している。

 

だが、報告しているうちに中江は不機嫌になる。熱心に語っているにもかかわらず、大久保は目を閉じ、話を聴いているのか聴いていないのか、起きているのか眠っているのかすらわからない態度だった。

ついに中江は声を張り上げて詰問する。

「私は官命を拝して、遠く欧州に赴き、今や蛍雪の功をおえてつつがなく帰朝したのであります。今日まずここに参邸して、邦家のためにいささか学び得た所見を述べ、閣下の清聴を煩わさんとするにあたり、眠りに入って相対せられるが如きは、甚だその意を得ざるところであります」


それを聞いた大久保は目を閉じたまま微笑した。

「予は決して眠っているのではない。君が熱心なる意見を聴取するにあたり、目を開き、端座して相対するよりは、君に腹蔵なく満腔の所見を十分に陳述させようと思うがために、ことさらに目を閉じ、逐一傾聴しているのである」

自身の眼光の威力を知っていた大久保は、中江が萎縮することないように気遣い目を閉じていたのであった。これには中江も感服し後年、
「大久保は一見して、予の志望を容れられ、初一念を貫徹することを得たが、いまなお当年の風貌を眼前に描きつつ、深く知遇の恩を蒙ったことを回想して、感謝措くあたわざるものがある」と語っていたという。

出典:『甲東逸話』