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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

『冷血と温血』福地源一郎の大久保評

「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である」

という福地の大久保評は、Wikipediaにも載っているので、よく知られているとおもう。しかし前述の文は大久保評の一部分でしかなく、その後に人間的な温かさについて触れていることはあまり知られていないのではないだろうか。

 

かくいう自分もその一人で、大久保の人間的温かさを示すエピソードを知るにつれ、福地は木戸孝允派であったから大久保を冷評したのだろうと考えていた。

ところが『甲東逸話』を読んでみると、福地は政治家としての冷血に触れたあと、一個人としては温血に富んでおられたと述べていた。

そこでは大久保の温かみを再確認できたばかりではなく、政治家としてアドバイスを送り、疎遠であった福地をして、「二十余年の今日にいたるまで、当たってわたくしの記憶より去ったことがなかった」といわしめていることを知り、意外な感がした。


「冷血」と評した言葉ばかりが独り歩きすることは大久保はもとより、福地としても本意ではないと思う。そこで『甲東逸話』に載せられている福地の大久保観をここに載せたい。(表記と仮名遣いを一部読みやすいように改めている)。

 

福地の大久保評

大久保公は、渾身これ政治家である。おおよそ政治家に必要である冷血の多きこと私は未だ公のごとき人を視なかったのである。
 公の顔色をのぞみ、その風采を仰ぐごとに、私はあたかも北洋の氷塊に逢うがごとき感を覚えたので、このことを塩田三郎君、小松済治君に話したところ、諸氏もまた同様の想をなすものであるといった。

 平常沈黙されて言語挙動を慎重にし、容易に笑顔を見せられたことがなかった。それゆえに私はほとんど一年半の長いあいだ(欧米巡視のころ)、公の側に咫尺(しせき)*1したにかかわらず、公の性情を洞察することができなかったが、たまたま伊藤伯(博文)の物語によって、わずかにこれを推知すること出来たのである。かつ、公と私とは、その気稟の相異もあったろうが、公はつねに私を冷眼視せられ、わたくしもまた敢えて公の知を求むる念なく、長官と属官との間柄でありながら、疎遠の有様に日々を送ったのである。

 

 回顧するに、明治六年二月、英京倫敦(ロンドン)の客舎でのできごとであったが、ある日わたくしは公事に関して大久保公の居室に伺候し、そのことがおわって後に公と雑話を交えたことがあった。

 

 そのときわたくしは公にむかって、
「わたくしが、公に容れられないのは私自身よく知っている。わたくしは事にあたって直に意見を吐露し、即智あるをもって得意としているので、公がわたくしを信ぜられないのは、この即智を危険千万であるとなされるためである。まことに公に容れられようと思えば公の前に出でて御意見を伺うごとに、まず公の賢慮を促し下問あるをまって、のちに愚見を陳べ、利害得失を具陳することが最上の方策である。しかして公とわたくしと、所見相合すること数回におよぶときは、公は必ずわたくしに対して信を措くに足るの材であると思われるであろう」
といったのである。

これを聞いて公は微笑され、
「まったく君の言葉のとおりである。君はその秘策を知りながら、何故実行しようとしないのいか」と。

 

そこでわたくしは昂然として、
「即智は天より享け得たところの智である。いやしくも公の知(知遇)を求めようがために、天与の才智をくらまして愚者をよそおうことなど潔しとしないのである」
と答えた。

 

公は面を正して、わたくしに向かい、
これ君が才を喜びて愚に陥る所以である。おおよそ政治家を志すものが、属僚より出でて要路に登るにあたっては、第一に長上の信を得ることが必要である。条理に背き正義に戻(もと)りて迎合し追従することなどは悪かろうが、そうでない以上は専らその信任を得るの心がけがなくてはならぬ。君はまだ壮年であって、他日に大志をいだくところの俊秀ではないか。今よりして才に誇り、智に驕るの弊を矯め、つとめて深慮熟考の習慣を養うがよい。そうしない以上は国家有用の器となることができず器をいだいて空しく轗軻(かんか)不遇の境地に陥るべきは明らかである
と懇々教誨を加えられた。その言葉が親切で、また温和であったことは、父兄が子弟における情愛といささかも異なるところがなかった。この言葉は爾来二十余年の今日にいたるまで、当たってわたくしの記憶より去ったことがなかった。この一事により公が政治家としては最上の冷血たるに似ず、個人としては懇切なる温血に富んでおられたことがわかるのである。

 

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*1:接近すること

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