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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

池辺三山著『明治維新三大政治家(大久保・岩倉・伊藤論)』

本書に序文を寄せている夏目漱石は、池辺三山との出会いを回想して、西郷のように感じたと書いている。

 

池辺君の名はその前から承知して知っていたが、顔を見るのはその時が始めてなので、どんな風采のどんな恰好の人かまるで心得なかったが、出て面接して見ると大変に偉大な男であった。顔も大きい、手も大きい、肩も大きい。すべて大きいずくめであった。余は彼の体格と、彼の座っている客間のきゃしゃ一方の骨組みとを比較して、少し誇張の嫌いはあるが、大仏を待合に招じたと同様に不釣り合いな感を起こした。まずこれからしてが少し意表であった。それから話をした。話をしているうちに、どういうわけだか、余は自分の前にいる彼と西郷隆盛とを連想し始めた。そしてその連想は彼が帰った後までも残っていた。もちろん西郷隆盛について余は何の知る所もなかった。だから西郷から推して池辺を髣髴(ほうふつ)するわけはないので、むしろ池辺から推して西郷を想像したのである。西郷という人も大方こんな男だったのだろうと思ったのである。――池辺君の史論について 夏目漱石

 司馬遼太郎の解説によれば、この夏目漱石の的外れなものではなく、偶然にも池辺三山の父が「肥後の西郷」といわれていた理由を看破していたのだとのべている。

 

漱石は、三山が行儀のいい人で、ひとに対してよく気をくばり、寡黙ながらいかにも優しさがあったという旨のことを書いているが、亡父吉十郎はよりいっそうその特徴をもっている。吉十郎はそれがゆえに熊本の学校党士族から慕われ、肥後の西郷などといわれることにもなったようである。漱石は、吉十郎についてはほとんど知識をもたない様子だったが、しかし三山において吉十郎と相似した質感を発見していることは、見様によっては薄気味わるいほどである。吉十郎と三山は、学識の深さにおいてほぼひとしく、機略の才をひめた時勢への観察眼のするどさもやや似ていて、考えてみるとこれほど似た親子もめずらしいといえるかもしれない。――解説 司馬遼太郎

 

 

 

 西南戦争薩軍に加勢し、斬罪に処せられた池辺吉十郎の経歴から考えれば、池辺三山が大久保を酷評してもおかしくなのだが、本書では大久保の真価を見誤ることなく論じている。

 

 一体政治家というものは武人権力を酷く怖がるものだが、大久保はそうでない。征韓論の破裂は、結局意見の相違が本だと帰納するほかはないですから、その衝突は政敵対抗の行為である。軍人、ことに天下随一の人望を持っている大軍人(西郷)を政敵として、友誼も友情も抛ち、またそのうえ半生の相互の関係歴史も抛ち、その結果、天下を敵とする恐れあるも憚らず、断然として排斥して、文治内閣を自己中心的に建立して、屹立するというその政治家的骨格の構造のしたたかなことといったらない。(中略)

 ビスマーク(ビスマルク)に比しても一層も二層も男性的だ。えらいと言わざるを得ない。

 

こうした私情に拘らない評価は、『大久保利通伝』の作者である勝田孫弥と親交があったこともひとつの理由であろう。しかしそれ以上に、池辺三山が的確な批評眼を有していたことを証明している。

 

明治維新三大政治家―大久保・岩倉・伊藤論 (中公文庫 M 19)

個人的に驚かされたのは次の考察である。

 

大久保には、自分独りで考えた主義方針というものは、どうも見当たらない。(中略)

その時分の交流とか藩公とかの説で、最善と思うものを深思熟慮のうえでこれを執って、従って堅くそれを守るという、執着力の強い性質である。政治家でその生命の主義方針がないと言えば不都合だが、大久保のようだと不都合でないばかりでない、むしろ将に将たりで、政治家以上で、帝王流だ。少々えら過ぎるくらいだ。それで我見に囚われないで善に従うことが始終できる。それも後入斎では仕方がないが、大久保のは堅忍不抜、一度思いきめたことは非常な執着力をもってそいつを実行する。

 とはいえ執着力だけでは目的を遂げることはできない。なので、よほど言語動作に気をつけていたと論じる。

言葉は穏やかであったに違いない。幕府から見れば陪臣、天朝から見れば陪々臣。また薩摩においても、大久保の下も無論あるが上もたくさんにある。一つ間違えば抜打ちといういう時代だ。言語動作はよほど謹慎であったでしょう。意地が強ければ強いほど謹慎でなければ差障りが出て来る。で、どこまでも謹慎、どこまでも温良恭謙の態度でやったに違いがない。が、腹の中には折れても曲がらぬ一物がギラギラしていたろう。ギラギラしていれば目に立っていよいよ始末にいけぬが、大久保は多分その上をほとんど光沢(つや)消しにしていたろう。

 

 実際、京都時代の大久保は恭謙な姿勢を貫くことで大政復古の大号令を実現させた。当時のある公卿は、大久保を温良な君子と評していたくらいである。

 

批評眼が優れているだけではない。明治の重要人物の貴重な証言もおさめられている。伊藤博文論では、伊藤博文自身の発言として、つぎのようなことが書かれている。

 

伊藤公はかつて、台湾征伐は己れがしたと岩倉公が言い出したと話されたことがある。

また京城事変は当時外務卿だった井上馨の失策だったと触れ、伊藤から聞いた話を載せている。

「(道後温泉に行っていた)井上に電報を打って早く帰れといってやっても、なかなか帰らない。仕方がないから、帰らなければ己れの意見どおりにやるぞといってやったら、井上はノコノコ帰って来た。そこで自分は井上毅と伊東巳代治を連れて、井上を横浜に迎えた。船は夜半過ぎに着いた。すぐに富貴楼で議論を始めた。すると、井上は日清開戦論を始めた。内を省みると薩州の親玉黒田清隆も開戦論だ。陸海軍皆それだ。山県に聞くと、剣を下げているからには戦争は嫌とは言えぬという。なかなか治まりが付きそうにない。そこで井上ととうとう夜の明けるまで論じたが、決着がつかない。自分の論は一本槍だ。己らは何のために西郷と大久保の争いのときに、大久保に賛成して西郷を捨てたか。その後、先輩のやり出した仕事は、まだまだ纏まりがついていない。それだのに外国に手を出すなどは間違っているというのだ。井上はどうしても聴かない。聴かないはずだ。後で聴くと井上は、仏蘭西(フランス)公使と密約までしていたんだもの」 

 

山県からは、戊辰戦争のときの西郷の発言を聞き出している。

「世の中というものは実に分からんものであります。御承知のとおり私は若い時には順聖公を押し立てるがために、久光公すなわち島津三郎の肉をくらわんくらいに憎んでいました。しかるに豈(あに)図らんや、今日は久光公の名代となってこの兵隊を率いている。そして敵は誰かというに、かつては順聖公の命を奉じてその人のために生命を捨てんとし、半分は捨てかかった慶喜公である」

 

その他、本書には付録として大隈重信山県有朋西園寺公望桂太郎山路愛山東郷平八郎乃木希典原敬など同時代の人物論も載せてある。

あくまで評伝のようなものだから、ところどころで史実との食いちがいはあるものの、すでに引用してきた文章を見ればわかるように、明治時代の書物でありながら読みやすく、明治の人物を研究するにあたっては欠かせない一冊といえるだろう。