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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

森銑三著『おらんだ正月』

本書は明治以前に医学、植物学(本草学)、天文学などで功績のある人物が紹介されています。

児童の雑誌のためにまとめられた書籍ですから、平易な文章で書かれていて、とてもわかりやすいです。(森銑三氏の文章が好きな自分としては、ややもの足りない感じもしますが)。

本書の書評というよりは、自分がおもしろいと思ったところを紹介します。

新編・おらんだ正月 (岩波文庫)

武田信玄の医者として仕えた永田徳本

永田徳本(ながた とくほん)は武田信玄に仕えていたことから、「甲斐の徳本」として知られていたそうです。武田氏滅亡後は、牛の背中にのって諸国を巡ったとのこと。

 

方々の山々に入って、薬草を採ってきては薬をつくるのでしたが、その処方には、世間の医者たちの知らないものが多くて、ことに劇薬を平気で使いますのに、それがまたたへんよく利くものですから、当時の人々は徳本を神様のようにあがめました。
 徳本は、外へ出るときには、薬を入れた頭陀袋(ずだぶくろ)を首に掛けて、牛の背にゆったりとまたがって、「甲斐の徳本、一服十八文」と呼ばわりながら行くのでした。そして、どんな病人でも快く診てやった上、一服の薬価として十八文だけ貰います。どのような難病を治しても十八文、どのような物持ちからでも十八文ときめて、それ以上の礼は受け取ろうともしませんでした。

秀忠を治療

徳本は将軍・秀忠の治療をしたことがあるそうです。(このとき100歳を越えていたといいます)。

秀忠が厚く礼をしようとしたときも、十八文しか受けとらずに城をあとにしたそうで、その後秀忠が、

「何によらず望みはないか。遠慮なく申し出でよ」と重ねて仰せられたときには、

「それならば私の知り合いに、住む家がなくて困っている者がございます。家を一軒下さるならば、ありがたく存じます」

と答えたということです。そして秀忠が家を賜ると、その知り合いを住ませて、自分は牛に乗って立ち去ったと書かれています。

 

日本のアリストテレスと賞嘆された貝原益軒

貝原益軒は神童だったと書かれています。十歳のとき、和算の本を読んだだけで算盤ができるようになったそうで、十九歳のころには殿様の側に仕えていたといいます。

シーボルトの賞嘆

黒田家に重用された益軒は、『黒田家譜』『筑前風土記』などという大部な書物を著したそうです。71のとき隠居しますが、その後も精力はおとろえることなく、著述をつづけ、80歳のときに博物学者として大著『大和本草《やまとほんぞう》』十六巻を完成させています。これは、支那の博物書『本草綱目』をもとに、日本、支那、西洋の動物、植物、鉱物について、調べ上げたもの。シーボルトの著述には「貝原翁は日本のアリストテレスだ」と褒めてあるそうです。

偉ぶらなかった人柄

船で国へ帰る途中、一緒に乗り合わせた若者が、益軒がいることに気がつかず、学問の話を得意になってしていたことがありました。益軒は顔色一つ動かさず、膝に手をおいて静かにそれを聞いていました。船が港につくと、人々は自分の国や名前を明かし合って挨拶する。益軒が「私は福岡の貝原久兵衛と申します」と名を明かすと、それまで偉そうにしていた若者は顔を真っ赤にして、挨拶もせずに消えたと書かれています。

 

27歳から独学した後藤艮山

後藤艮山は27歳のときに、自分は何をして世に立つかと考えたといいます。儒者になっては仁斎の右にでることが難しい。僧侶では隠元の上に立てそうにない。医者には、まだそれほどの大人物も出ていないから、自分の腕を振るう余地が十分にある、と決心したそうです。

その当時、名医としられていた名古屋玄医に弟子入りしようとしましたが、入門の挨拶に持っていったお金が少なかったため玄医は会ってくれません。

「玄医は人を知らぬ奴だ。それならばもう会わなくともいい。自分は独力で立派な医者になって見せるぞ」

とそれから独学で医学を学んだそうです。

温泉、熊胆、灸

当時世に行われていた医術に疑いを抱いた艮山は、古い医書などを読みあさり、独自の療法をはじめたようです。

 

病に効能があるということで温泉をすすめます。なかでも城崎温泉を推奨したそうです。

 

つぎに熊の胆が薬になるということで、自分で丸薬を作成してひろめます。熊胆丸です。熊の胆といえば「臥薪嘗胆」という故事成語でしられている、越の勾践が嘗めた苦い胆は、熊の胆だといわれています。

 

そしてお灸。それも一度にたくさんのお灸を使用したそうです。

当時の人々は「後藤養庵ではなく、湯熊灸庵だ」といったということです。また支那の古い医書の処方で治療することから、古方家と呼ばれたとも書かれています。

人体解剖をはじめて行った山脇東洋

上述の後藤艮山と交流があったのが山脇東洋です。彼は後藤艮山や書物から様々な意見を採りいれる研究熱心な人でした。なので、人体の内部についても正しく知りたいと考えます。

山脇東洋は、後藤艮山に人体の内部について訊ねてみます。

「それは実際に屍体を解剖して見るのが一番だが、止められていて出来ないのだから仕方がない。代わりに獺(カワウソ)を解剖して見てはどうだろうか。獺の内臓は人間とよく似ているというから、私はもう何回も試みたが、事実似ているように思われる。あなたも一度やって見たらよいだろう」

とアドバイスされたそうです。東洋はそのアドバイスにしたがって獺を解剖したのですが、果たして本当に人間と似ているのかという疑念は消えません。

日本最初の解剖

東洋が実際に解剖することができたのは、宝暦四年、50歳のときでした。京都で打ち首になった罪人がいたので、その屍体の解剖を願い出て許可されたということです。そして門下生や若狭国酒井家の医者・原松庵らと解剖にあたります。これがわが国最初の解剖だったといわれています。

そして東洋は『臓志』という書物を著し、支那の古い医書の記述は間違いだらけであり、獺の内臓は人間の内臓とは似ていないと報告したそうです。

山脇東洋に認められた吉益東洞

吉益東洞は代々医者の家庭に生まれましたが、先祖が武家だったと聞き、武芸によって身を立てたいと考え兵学を習っていたそうです。しかし、太平の世では武芸では身を立てることが難しいと気づきます。

「よし、それならば、おれは天下の名医になって見せる」

と東洞は19歳のとき決心したそうです。それからは、寒中でも火に当たらず、夏の夜にも蚊を防ぐことなく、一心不乱に古い医書を読み、後藤艮山の説なども聴き、研究に研究を重ねた末に、ついに三十歳の頃に「万病一毒の説」という自説を立てます。

万病一毒の説

あらゆる薬もやはり毒だ。病人に薬を与えるのは、毒を以て毒を攻めるので、毒が去ってしまえば身体も快くなる。「万病は唯一毒、衆薬は皆毒なり。毒を以て毒を攻む。毒去って体佳(たいか)なり」というのです。どのような病気も、毒を以て思う存分に攻撃して、これを平らげてしまおう。

京都に出る 

「天下の病人を救うのには、まず天下の医者の頭から治療してかからねばなるまい。それにはどうしても都へ出なくてはならぬ」と考え、37歳のときに両親と妹を連れ京へ出ます。

しかし地方から来たため軽蔑され、患者も弟子入りするものもいません。しかも盗人に入られ、わずかの蓄えもなくなってしまいます。

ついに医者では食べていけなくなり、内職に張子(はりこ)の虎や人形を作ったり、皿や鉢を焼いたりして、どうにか家中の者を養っていたそうです。

七日間祈願を捧げ続ける

京に出てから6年たちましたが、生活は苦しいままでした。そして五条通りの少彦名(すくなひこな)の社に七日の間お籠もりします。

「不肖ながら、古の医道を今の世に興そうと思い立ちましたのに、かようの貧窮に陥って、命は旦夕にも迫りまして。もしも私の信ずる医術が、世の人々のためになりますなら、どうか私を助けて医術を行わせて下さりませ。もしまた私の信ずるところが、世の中の害になりますなら、どうかまた一日も早く私の命をお取り上げ下さりませ。自分の信ずる医術のためには、たとえ餓死しようとも、私は少しも厭いませぬ

と一心に祈願したそうです。

山脇東洋に認められる

ある日、内職の人形を持って出入りの問屋に行くと、主人の母親が大病で、家のものが心配していたそうです。それを知った東洞は、
「私は、只今こそかような職人風情に落ちぶれてはおりますけれども、元々は医者の倅でございます。お差し支えがなかったら、どうかご隠居様の御病気をお診せくださいませ」と頼んだそうです。

東洞は病人を診察して、

「お医者は、どなたにおかかりでございますか」

とたずねると、主人は山脇東洋だと答えます。

「ああさようですか。山脇先生なら間違いはございますまい。しかし、お薬もついでに拝見させていただきましょう」

薬を拝見した東洞は、

「薬の中の石膏はお除きになってよろしかろうと存じます」

と伝えて去ります。

それから山脇が来て、いつものように診察を終え、調剤にかかるが、匙を執ったまましばらく思案の体でした。

そのとき主人が、
「これはただ、お笑い草に申上げるまででございますが」と前置きして、東洞のことを話します。

東洋は、はたと膝を打ち、

「実はそのことでござった。私も石膏を、今一日用いようか、それとも止めようか、迷っていたところです。そのお話を聞くからは、石膏を止めることにいたしましょう」と、東洞の言葉通りにしたといいます。

 

そして東洋は、東洞の住所を聞き訪問します。住んでいる家は大変みすぼらしく、人形を作った屑などが散らばっていました。そんな中、東洞は名高い医書を膝元に開いていたとのことで、それを見た東洋は非常に感心したとのことです。それ以降、東洞は「山脇東洋が認めた医者」として繁昌したとのことです。

わが国洋学界の一大恩人前野蘭化

前野蘭化は、杉田玄白とともに『解体新書』を翻訳しながら、出版するにあたり杉田玄白の翻訳ということにした人物。

玄白が、

「序文だけでもお書き下さい」と頼んでも、

「以前九州で、太宰府天満宮へお参りしたときに、私が蘭学に志を立てたのはただ学問のためで、それによって名を売ろうの得をしようなどのというのではございません。どうかこの学問の成りまするようお力添え下さいませ、と祈願をこめました。今この書物に名前など出しては、そのときの誓いにそむきますから」と断って、とうとう承知しなかったそうです。

 

新装版 解体新書 (講談社学術文庫)

新装版 解体新書 (講談社学術文庫)

 

 

47歳からオランダ語を学ぶ

あるときオランダの書物の切れ端を見た蘭化は、オランダの文字を学ぼうと思い立ちます。そこで青木昆陽が読み方を知っていると聞いて、たずねます。しかし昆陽はその年に亡くなってしまいます。

このとき前野蘭化は47歳だったといいます。

オランダ語の勉強を反対される

長崎のオランダ人たちが将軍への挨拶のため江戸へ出てきたとき、蘭化は玄白とともに訪問することにした。

このとき二人は、通詞の西善三郎という人にオランダ語学習のむねを話すと、

「それはお止めなさいまし。私などは通詞の家に生まれて、子供の内からオランダのことに親しんで、もう50になるのですが、まだまだ十分に話など出来ぬ始末ですよ。まして江戸においでなすって、蘭語の勉強などが出来るものじゃございません。断念なすったほうがよいでしょう」

と反対され、ふたりは失望して帰ったそうです。しかしその後長崎へ行き、100日ばかり滞在して、オランダの書物などを買ったりして、勉強に励んだとのこと。そして遂には『解体新書』の翻訳がされたそうです。蘭化は49歳、玄白は39歳。玄白はABCがわからない状態だったので、蘭化が先生としててほどきしたとのことです。

 

その他、本書で書かれている人物

  • 和船で万里の波濤をしのいで南洋まで貿易にでかけた角倉了以
  • 一派の鍼術を興した杉山和一
  • 日本にも薬草があることを証明した稲生若水
  • 世間一般で用いられる地図を作った長久保赤水
  • 天球儀を作成した三浦梅園
  • 石の夢しかみないとまでいわれた石の蒐集家木内石亭
  • 賴山陽に地図を与えた古川古松軒
  • 日食があることを言い当てた麻田剛立

他にも面白い人物が書かれていますので、是非手に取って読んでみてください。森銑三氏の研究法や人柄が書かれている外山慈比古の解説も一見の価値があります。

 

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