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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

西郷隆盛の藩政改革を制止した島津斉彬

島津斉彬の男児は『高崎くずれ』の頃に相次いで亡くなっている。この不幸は、お由羅側(久光擁立派)が呪詛したためだという風説があり、西郷もそれを信じて疑わなかった。

 

そして嘉永七年(安政元年)七月二十四日、当時六歳だった虎寿丸(とらじゅまる)が突然死去し、島津斉彬も大病を患う。呪詛によるものだと信じていた西郷は、お由羅を斃す決意を書簡にしたためている。


福島矢三太宛(八月二日付)の書簡

大変到来仕り、誠に紅涙(こうるい)にまみれ、心気絶々に罷(まかり)りなり、悲憤の情御察し下さるべく候。もふは御聞き及びのはずと存じ奉り候。先々月晦日より、太守様俄に御病気、一通りならざる御煩い、大小用さえ御床の中にて、御寝もなさらず、先年の御煩いのように相成る模様にて、至極御世話遊ばされ候儀に御座候。

 

以上は斉彬の容態について。六月三十日にから体調を崩し、大小用すら病床でするほどで、睡眠をとることもできない危うい状態だった。

 

若殿様には、去二十三日、昼九つ時より御瀉(おくだ)しにて、昼の内十二度、夜二十五度位の儀にて、八ッ時分、ついに御卒去遊ばされ候段、我々式(我々のように身分が低いもの)は、翌朝承り候位にて、残念如何とも申し様のあるものにて御座なき候。思えば思えば髪冠を突き候。太守様にも至極御気張り遊ばされ御様子と伺い申し候。

 

斉彬の世継ぎ虎寿丸は七月二十三日の昼に12回も下痢をし、夜には25回、そして午前二時に亡くなられたという。思えば思うほど(怒)髪冠を衝くというほどだから、いかに由羅に対する憎悪が激しかったかがわかる。そして奸女由羅をたおさなければいけないと綴る。

 

また、(斉彬公が)このうえ御煩い重ね候ては、誠に暗の世の中にまかり成り候儀と、ただ身の置きどころを知らず候。ただいま致し方御座なく、目黒の不動へ参詣いたし、命に替えて祈願をこらし、昼夜祈り入り事に御座候。つらつら思慮仕り候ところ、いづれなり奸女をたおし候ほか、望みなき時と伺い居り申し候。御存のとおり、身命なき下拙に御座候えば、死することは塵埃の如く、明日を頼まぬ儀に御座候間、いづれなり死の妙所を得て、天に飛揚いたし御国家の災難を除き申したき儀と、堪えかね候ところより、あい考えおり候儀に御座候。心中御察し下さるべく候。


薩摩藩のお家騒動の元凶ともいえる由羅については、以前から排除しなければと考えていたが、虎寿丸が亡くなり、斉彬が重病に陥ったことで、命を捨ててかかって由羅を葬り、霊魂となり天に飛翔し国家の守護霊となろうと意を決したようである。

実に紙上に向かって、この若殿様の御儀申し述べがたく、筆より先に涙にくれ、細事におよび能わず候。眼前拝み奉り候ゆえ、尚更忍び難き、只今生きてあるうちの難儀さ、却って生を怨み候胸に相成り、憤怒にこがされ申し候。恐惶謹言。

若殿様(虎寿丸)のことに触れようとすると涙があふれ、細事におよぶことができない。拝謁したこともあるため、尚更忍びがたく、かえって自分が生きていることを怨む……このあたりに西郷隆盛の繊細な一面が窺える。多感の丈夫である、と大久保が評したのも頷ける。

 同志との謀議

江戸に参府していた同志・大山綱良(正円)、海江田信義、樺山資之(三円)と密議しながら、由羅および久光擁立派の権臣を排除する計画をたてていたが、斉彬から思いがけないことを打ち明けられる。

 

虎寿丸が亡くなり、継嗣問題による紛争が藩内で起こりかねないので久光の子(忠義)を世継ぎに指名する――と。

当初西郷は反対した。由羅も憎ければ、その由羅の子である久光も肉を喰らいたいほど憎くんでいたからだ。山縣有朋談)

 

しかし斉彬の決意は固く、西郷も表面上はそれに従うしかなかった。とはいえ、あくまでも由羅排除の志は失っていない。


安政二年の春に樺山資之と海江田信義が帰藩するとき、江戸と薩摩の両地で呼応して藩政改革を断行すると結約。

 

さらに安政二年八月三日付の書簡(樺山資紀宛)では、虎寿丸の一周忌まで生きながらえている無念さを吐露し、当今の急務としては斉彬に嫡子が生まれることであるから、海江田とともに日新公(島津忠良)と大中公(島津貴久)の霊廟に参詣して至誠を尽くして祈願してほしいと書き送っている。

 

久光の子を世継ぎにする意は公表されていなかったので、新たに男児が生まれることを西郷は祈っていたのである。

そしてその後も斉彬の腹心・伊藤才蔵とともに藩政改革の謀議を重ねていた。

島津斉彬の炯眼

この計画はいつしか斉彬の察知するところとなり、西郷と伊藤才蔵は斉彬に呼ばれてつぎのように訓戒された。

 

「おまえたちが過激な挙を計画していると聞く。それが国家のために尽くす思いによるものだとしても、結局は真に国家の大事に任じ天下のために尽くそうとするものの行為ではない。権臣の輩には、その心術が良くない者があるけれども、先公(斉興)からの重臣ではないか。それを軽挙により退ければ、私の孝道を失わせるものだ。そのような不孝をおこなうならば、先公に詫びるため退隠するほかあるまい。権臣の輩が私の政策を妨害してはいるものの、これを駕馭しその長短を弁識して適した役を果たさせれば、不可などないのだ。いたずらに軽挙をなして、事を失し、私を困厄に陥らせるなかれ」

 

この言葉を聞いた西郷は、軽挙を計画していたことを後悔し、鹿児島の有志に書を送って計画を取り消したという。

 

このことについて西郷隆盛伝の著者は、当時もし西郷がこの計画を実行していたならば、薩藩の内訌をふたたび招き、(たとえ成功したにせよ)西郷といえどもその驥足をのばすことができない不幸を招いただろうが、幸いに斉彬の炯眼が軽挙を防ぎ、西郷の雄資を大成させ維新回天の大業を成就させたと書いている。

 

 

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