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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

水戸側の人物と交流して薩摩藩の改革が必要であると実感した西郷隆盛

前回書いたとおり西郷隆盛藤田東湖は互いに認めあい、国政改革の同志として親交していた。東湖の紹介により、江戸にいた志士と交わるようになる。当時の西郷に影響を与えたのは、水戸藩の人物が多かったようである。

 

水戸藩の俊傑たち

戸田忠敬(とだ ただたか:蓬軒)は幕府側の人物と親交があり、西郷が幕府の内情を知ることができたのは、戸田から情報を得ることができたからだといわれる。

 

戸田忠敬は、藤田東湖とともに「水戸の両田」と呼ばれる徳川斉昭の股肱の臣。水戸藩で議事を行うとき、斉昭は戸田の意見を訊いてから決断したほど信頼されていた。藤田東湖と戸田忠敬は、全国の志士が北斗と仰いでいた存在だった。

 

藤田、戸田とともに「水戸の三田」といわれた武田耕雲斎とも交流している。藤田、戸田が安政二年に急死したあと、西郷が水戸藩の人物でもっとも信頼していた人物。

 

その他、桜任蔵(西郷が豪傑と認めている)、原田兵助ら水戸藩の俊傑たちと交流していた。

 

西郷は水戸藩士と交わり、
「さすがは水戸藩である。自分が水戸邸を訪問し 藤田に面するも、戸田に会するも、また今井に接するもその答えるところは一致していて、あたかも異体同心の感がある」
と、水戸藩の重臣の意見が一致していることに感心していたという。

 

西郷は以前から、久光擁立派の権臣を排除したいと考えていたわけだが、水戸藩の意見が統率されているのを見て、薩藩を改革しなければいけないと痛感したようである。

藤田東湖もまた、西郷に薩藩の改革に着手することをすすめたともいわれる。

 

藤田東湖の構想と西郷への期待

藤田東湖の思想は尊皇敬幕である。
すなわち皇室を尊び、幕府を敬うというスタンス。東湖が目指した政治体制は、天皇自らが政治をおこない(天皇親政)、幕府および諸藩が補弼(ほひつ)する公武合体であり、それより挙国一致し、列強に対抗することを構想していた。当然ながら倒幕ということは考えていなかった。

 

こうした大改革は声望と実力を兼ね備えた雄藩が主導しなければ実現せず、薩摩こそがその雄藩だと目していた。

しかし薩摩藩は世継ぎ問題(「高崎くずれ」あるいは「お由羅騒動」)などがあり、決して一枚岩ではなかった。

島津斉彬は集成館事業(西洋式の工場による殖産興業)をすすめていたが、設備投資や研究のためにかかる費用により財政が破綻することを恐れた藩の権臣が政策を妨害していたほどである。

 

東湖が西郷に期待していたのは、こうした情況の薩摩藩を改革し、斉彬と臣下が一体となり国家の改革にあたることだった。

 

おそらくは改革の手段などを西郷に授けたのではないだろうか。斉昭は東湖を「彪(東湖)は誠に才子である」と、才略を振るってこそ真面目を発揮したと語り、伊藤博文もまた、
「彼(東湖)は、事務に通じた人であった。学者というよりも、むしろ事務に明るい人というほうが当たっていると思う。事務を知るは英傑の士というから、やはり英傑だ。事務にはよほど通じていた人だ」
と語っている。
これらによっても藤田東湖は、才智を尽くして事を処理する人物だったと考えられる。

後年の西郷は、
「東湖は赤裸々にその胸中を解放するが、ただ切っ先三寸だけは深く蔵(おさ)めて人に示さなかった」
ということを山縣有朋に語っているほどであるから、かなり踏みこんだことも話し合っていたはずだ。もちろん秘中の秘は明かさなかったのだろうけれど。

 

そして嘉永七年(安政元年)の七月。西郷が藩内の改革を考えていたとき、島津斉彬の世子・虎寿丸が急死し、また斉彬も体調を崩してしまう。これがより一層、西郷を改革へと駆り立てることになる。

 

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