西郷隆盛と藤田東湖の関係
海江田信義が藤田東湖と面会したのは嘉永6年だった。つまり西郷が東湖と面会する1年前である。
東湖は、
「大事業をなす人物が必要だ。薩摩の人物はどうであるか」
と海江田に訊いている。
「二人は何歳であるか」
と東湖は言う。
「西郷は27歳であり、大久保は24歳です」
二人が若いことを知った東湖は、
「それならばよい」
と喜んだという。
東湖が西郷について知ったのはこのときが最初である。そして翌年、島津斉彬が江戸にのぼり、西郷も参府した。
島津斉彬は、諸藩の大名および有志に、
「家来に西郷吉之助という者がある。これは追々役に立つ者であるから、何分よろしく頼む」
と伝え、東湖にも西郷のことを紹介し、東湖は西郷に会うことを楽しみにしていた。
面会
西郷が藤田東湖に会ったのは嘉永七年(1854年)*1の四月十日(西郷南洲選集上巻)、西郷が庭方役に抜擢されて数日後、樺山三円とともに小石川の水戸邸へ行き、藤田東湖と面会している。このとき西郷は28歳で、東湖は49歳だった。
雄偉な体格の東湖は、顔が浅黒く、眼光炯々、一見して豪傑だとおもわせる風格があった。しかも慇懃な態度で迎えて西郷を感激させている。
同様に、東湖もまた西郷がただ者ではないと感じたのだろう。というのも米田虎雄は、東湖と西郷は一見して豪傑とわかる風貌であり、似ているところがあったと語っている。
東湖は実に一見して異相であった。私の知っておる範囲では、見るから天下の豪傑という事の分かる異相の人は東湖と大西郷の二人であった。
東湖の眼は大西郷ほどにギロギロしてはいなかったが、顔は黒くて鼻は大きな獅子っ鼻であった。肩の所にこんな大きな(と男爵は両手で肩の辺に大きな拳を作って見せ)瘤(こぶ)ができていて、雲助の肩のように張っていた。途中で東湖に逢うと、その風貌を一見すればすぐ普通(ただ)の人間でなく、誰が見ても豪傑とは知れた。それでいてお辞儀などは鄭重な人で、頭を低く下げて挨拶をするし、話をするのでも謙遜な人であった。西郷もこの点はよく似ていた。――男爵米田虎雄氏談『大久保利通』
西郷は初対面の挨拶をすませると、慎み深く東湖と樺山の談論を聴いていたといわれる。
水戸邸を辞した西郷は、
「東湖先生は山賊の親分のようである」
と樺山三円に感想を述べている。
また叔父へ宛てた手紙ではつぎのように書いている。
(東湖のもとを訪れると)清水を浴びたようであり、一点のくもりすらない清澄な心になり、帰路をわすれてしまうほどであります。(中略)
自画自賛となりますので人には言えませんが、東湖先生も私のことを嫌っているようすはなく、いつも丈夫と呼ばれ、過分の至りでございます。(中略)
もし水戸の老公(徳川斉昭)が鞭を挙げ、先駆けて異国の船と戦うならば、一目散に駆けつけ殉じてしまいたいほど心酔しています。どうぞ笑ってください。(以下略)――椎原与右衛門、同権兵衛宛 安政元年七月二十九日(現代語訳)
この手紙によっても西郷がいかに東湖および水戸側の人物に心酔していたかが窺える。
東湖と西郷の関係
水戸藩は尊皇思想(水戸学)の本山であり、藤田東湖は理論においても実践においても水戸学の中心人物だった。それだけに藤田東湖の意見や思想は、西郷に刺激を与えたにちがいない。
なにより西郷を感激させたことは、東湖は師弟の交わりではなく、同志として西郷を重んじていたことであろう。
横山建堂が東湖の姪である豐田芙雄(とよだ ふゆ)に西郷と東湖の師弟関係を訊ねたところ、
「師弟の関係とや、東湖と大西郷は先輩後輩の交わりを為せしにすぎず」と師弟関係ではなかったと断言したという。(横山建堂『大西郷』)
このことからわかるように東湖は、西郷を弟子ではなく同志とみていた。しかも自らの後継者として目し、「天下の事を信任すべきは西郷氏ひとりか」と語っていたという。