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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

島津斉彬の大度に感銘をうけた大久保利通

島津斉彬は、幕末随一の英君である。西郷隆盛が斉彬に薫陶をうけたことはよく知られている。大久保利通もまた斉彬の感銘をうけ、大人物となった一人だった。

島津斉彬の宏量大度

 

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島津斉彬薩摩藩主になったのは嘉永4年(1851)。斉彬が43歳、大久保利通が22歳のときだった。その2年後、大久保が放免されている。

西郷と大久保の建言書

放免された大久保は西郷とともに、藩政改革の建言書を提出している。その大要は、
「幕閣および水戸藩に謀り、斉興以来の権臣を退け、薩摩藩の一大改革を行うべき」
というものだった。(『大久保利通伝』)

 西郷、大久保へあてた斉彬の書簡

斉彬がひそかに西郷、大久保に与えた書簡がある。そこに書かれている内容を要約すれば以下のようになる。

二人の建言はもっともであるが、時と位を考慮しなければ、善事がかえって悪事となる。正邪は分明であるけれども、ここで内紛をひきおこせば、そのために薩摩藩の不和が世に知られるのみならず、私が父の重臣を排斥する親不孝なやつだと誹られ、やがては薩摩藩の名誉を傷つけるだろう――

斉彬が自分の藩主就任に反対した重臣を留任していたのは、国難が迫っているときに藩内が分裂していては、難事に対処できないという達観によるものだった。
さらには、「君主は表であり、臣は影である」と司馬光が書いているように、君主の感化により臣下の気質を変化できると信じていた、そうできなければならぬと心していたふしもある。

この大度に西郷と大久保は感服したようであり、その後は過激派の同志を抑止している。

海江田の斬奸を阻止した大久保

斉彬は、久光の子・又次郎(のちの忠義)を自分の世継ぎに指名しようとした。斉彬の実子は早世していたこともあり久光の子を立てるつもりだった。これには斉彬擁立派、久光擁立派で分裂していた藩内をまとめる目的もあったのだが、改革派は反対する。
久光とその母・由羅は、改革派が嫌悪する存在であったからだ。そこで海江田信義は久光派の権臣を排除しようと動きだす。

 

当時西郷は江戸にいたこともあり、海江田は大久保に計画を打ちあけた。


大久保は、西郷から届いた手紙に、藩の権臣を排除する運動は慎むように、と書かれていたことを告げてから説諭した。

「権臣を退けることは我らが長年抱いてきた志であり義挙といえる。しかし西郷からの報告では、事を起こしてはいけないとある。くわしい事情はわからないが、おそらく時機尚早ということだろう。藩内で義挙をなして権臣を排除しても江戸藩邸の形勢がわからない以上、その根を絶たずに枝葉を除くにひとしい。これでは暴挙にしかならない」

 

議論では大久保にかなわないと見た海江田は、奇策によって大久保を焚きつけようとした。松原神社の神主に請い、「この一挙を可とす」と書かれた神符を賜り、それを大久保に見せる。

以前書いたとおり、松原神社は大久保が父の放免を祈願したところでもあり、薩摩中興の祖・貴久を祀る神社でもある。その神符は、薩摩藩の士民があつく信仰していて、これを疑うものは、かえって不忠とみなされるほどだった。
しかも信仰心のあつい大久保である。遺憾なく効力が発揮されると海江田はみていた。

 

 

しかし大久保は冷静だった。
神慮においてこの挙を可とされているのは、その大体についてであり、実行するにおいては時局をかえりみ、深思熟慮して決定するべきだ」
ピシッと海江田を説き伏せ、軽挙妄動させなかった。


大久保への感化

海江田を押しとどめたことからわかるように、斉彬による薫陶は大久保におおきな影響をあたえた。のち大久保が、みずからの旧怨ともいえる由羅の子・久光に接近し、藩内をまとめあげたのは斉彬の宏量大度をならったもので、それによってその遺志を継いで率兵上京ができたといえるだろう。

 

 

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