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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

高崎くずれの頃の大久保利通の苦心

大久保利通が21歳(このころ正助と名乗っていた)のとき、父・大久保利世が「高崎くずれ(お由羅騒動)」に連座して、喜界島に遠島。そのため大久保家は閉門を命じられ、利通も記録所書役を免職している。

 

勝田孫弥『大久保利通伝』*1、松原致遠『大久保利通*2では記述が異なり、大久保利世の処分が決定した時期は不明である。いずれにしても嘉永二年ごろに遠島がきまり、船便の都合で半年ちかく座敷牢で謹慎していらしい。


利世を見送ったときの大久保利通

 

喜界島への遠島は、死罪につぐ重刑だった。それなので利世を見送る母と妹は、あるいは最後になるかもしれないと涙を流していた。

この様子を見て、大久保は涙をこらえながら戒めている。
「おまえたちは武士の子女ではないか。父君の長途を涙で見送ってはいけない。ぜひとも心を励まして、父君に内顧の憂いを抱かせないようにせよ」(『甲東逸話』『大久保利通伝』の一節を現代語訳)


そして大久保は、船牢に押し込められる父に向かい、
「何卒、玉体の健康に御留意遊ばされ、放免召還の日を待って下さい」
と言い、
「父上の不在中は、必ず御命令に従い、勤勉誠実事に従い、家門を護りましょう」
と誓ったという。(『甲東逸話』)

 

閉門中の家族、流刑地の父のために苦心する

大久保利通の妹三人はつぎのように語っている。

父の遠島中における公の困難は実に一通りでなかった。(令妹三人で交々(こもごも)その困難の模様を話される)。
遠島は足かけ六年であったが、その間は厳しい閉門を受けて、困難な家計を整理してゆかなければならぬ。それに遠島中の父へ向けて仕送りをしなければならず、内には三人の妹に母、このまた母上があまり心配をし過ぎた結果、持病を起こして寝込んでしまわれたので、その看護をしなければならず、収入といっては一文もなし、その間の困難は非常なものであった。――『大久保利通 

閉門中の大久保家は、親類などに借金をして貧窮をしのいでいた。また西郷隆盛の家で食事をしたというエピソードもある。
こうした苦しい状況にありながらも、父が不自由しないように衣類、食料、タバコ、筆、紙、墨などを調達しておくりとどけ、そのおかげで利世は孤島にいながらさほど不自由を感じなかったということである。(『大久保利通伝』)


放免を祈る

父・利世は、平生神仏を信じること篤かった。その影響もあってか利通も深い信仰心を持っていた。
父の遠島が決まってから、毎朝祈りをささげていたのはよく知られている。


ここでも勝田孫弥による『大久保利通伝』『甲東逸話』と、松原致遠『大久保利通』の内容に異同がみとめられるが、おおよそは下記のとおりとなる。

謹慎中の大久保は、夜が明けきる前に外出していた。家族もそのことには気がついていた。しかし、どこへ、なんのために出かけているかは知らず、後になってから、大中神社(現在の松原神社)と天神様に参詣して、利世の無事を祈念していたと判明した。

勝田孫弥の記述

勝田孫弥(『大久保利通伝』『甲東逸話』)によれば、当時大久保家に出入りしていた商人は、大久保が毎朝でかけているのを不審におもい、尾行してみることにした。大久保は寒風吹きすさぶなかを足早にすすみ、大中神社で数分間跪く。祈祷がおわると衣服を脱ぎ、かたわらにある井戸の冷水をくみ上げて五体を清めていたという(当時、真冬だった)。
この光景を目撃した商人は、深く感激して大久保一家につたえ、これにより家族の知るところになった。

妹たちの回想

松原致遠が大久保の三人の妹から聞いた話(『大久保利通 』)では、六年におよぶ遠島のお終い頃になり、

「これはお内の正助さんのでありませんか」
と近所の人が、大中神社におちていたタバコを届けてきた。そこで母が問い詰めると、毎朝神社で祈祷していたことが判明したということである。

人相見に大願成就の時期を訊ねる

大久保がどれだけ切実に父の放免を祈願していたかは、つぎの話からも知ることができる。

公の二十二、二十三に人相見が公の家へ来て泊まったことがある。山伏で人相見もやる男であった。それが公の手相を見るなり吃驚(びっくり)して、こんな手の人はあるものじゃないと言って、盛んに褒めた(きち子刀自が、あの山伏さあ、あん時褒めたのなあと言えば、皆々そうそうと言わる)。山伏は公の手を相して、こんな相は私ははじめて見たが、これは天下を取る相じゃと言った(この時、きち子刀自は記者に向かい、あれで天下を取ったというものでしょうなアと言わる。記者も微笑みて、太上大臣が贈られてありますからという)。
公の母上が私の手相も見てくれと言われたら「こげん息子どんあれば、お前のんな見るこちない」と言って見なかった。公がこの時、私に大願があるが、いつ達するかと聞かれたら、三年後には願望が叶うと言っていた。多分遠島の免(ゆ)りるように祈っておられたそのことであろう。はたして父上の遠島は、三年にして免りた。この山伏は毎年お札を売りに来たが、この時に来たッきりで、ついに来なかった。――『大久保利通

大久保利通 (講談社学術文庫)


奸賊を退けようと西郷とともに策動

以上が謹慎中における大久保の苦心の一端である。しかし注意しておきたいのは、大久保はただ神仏に祈りをささげて父の放免を願っていただけではない。彼は、西郷とともに藩庁の奸賊を排除すべく策動していた。次回、そのことについて書きたい。

 

 

 

*1:勝田によれば、冬に処分が決まり春に渡航したとある。

*2:松原致遠が大久保の三人の妹から聞いた話では、四月に渡航するはずが船便の都合で十月になったとある。