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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

高杉晋作の弟子になった田中光顕

田中光顕は、高杉晋作に弟子入りしている。その経緯と師高杉からの教訓が『維新風雲回顧録』で述べられているので紹介したい。

維新風雲回顧録---最後の志士が語る (河出文庫)

土佐出身の田中光顕はどうして高杉晋作の弟子になったのか?

奇兵隊を創設し高杉晋作が陸海軍総督ともいうべき立場だったとき、田中光顕は中岡慎太郎とともに長州に入り、薩長両藩が旧怨をすてて握手しなければ倒幕はできないと説得していた。

中岡が熱弁しているとき、高杉は田中光顕の長刀に目をとめた。

 

「失礼だが、君の佩刀を拝見したいものである」
高杉が私にいった。
「どうぞ、ご覧下さい」
刀だけは、自慢だ、というのは、これこそ私が苦心して、十津川において、薩藩士梶原鉄之助から譲りうけた貞安の名作だ。

 高杉は、鞘を払って、しばらくの間、じいっと刀身を見つめている。
「まことに見事な刀である。平素のお心掛けのほど察し入る」
果たして大層もない賞め方だ。
「おことばで痛み入ります」
やがて刀を鞘におさめると、高杉は、開き直る。
「はなはだぶしつけなお願いだが、お聞きとどけて下さるか」と石川(中岡慎太郎の変名)に向かっていった。
「どうか、君から田中君に話して、この刀を拙者に譲ってくれぬか」

 

さて困った。私が、梶原に交渉した当時と、同じことをいっている。その頃の志士は、名刀に接すると、恋人を得たるがごとくに、愛着することは、共通の心理である。高杉の心持ちは、よくわかっている、だが、いくら相手が高杉でも、この刀ばかりは手離すわけには参らぬ。

 

しかるに、石川は、ただちに承知した。
「よろしい」
こういって、私をふりかえった。
「高杉君が、ご所望だから、お譲りして上げたらよかろう」

「はなはだ残念であるが、それだけはお許し下さい」
「何か仔細があるのか」
石川も妙な顔をしている。
「はい」と、私は口ごもっていた。

「実は、この一刀は、私が十津川に潜伏中、薩藩の梶原氏からゆずり受けたもので、他から求めたものではありませぬ、梶原氏も、ことのほか、大切に致して、容易に譲るとは申されなんだが、いろいろ交渉をかさねたあげく、やっと承け引いてもらいました。そういう由来もあること故、せっかくであるが、お断りいたします」

露骨にことわっても、高杉は、思いあきらめようとしない。

「由来を聞いて、なおさら欲しくなった、梶原氏の心掛けといい、君の心掛けといい、ちかごろ感服つかまつる、どうか、ご両所の心掛けとあわせてこの刀を拙者にお譲りを願いたい」
たっての望みだ。
「何としても、ご執心でありますか」
「いや、もう欲しくてたまらぬのであります」
「では、私にもお願いがあります。お聞きとどけ下さらば、さし上げぬものでもありませぬ」
「何んであるかいっていただきたい」
ここぞと、私がつめよせる。
「しからば、あなたのお弟子にしていただきとうござります」
「弱ったな、拙者は、人の師たる器ではない」
「それならいたし方ござりませぬ、刀は、お譲りはできませぬ」
「つらいな、ようし、そういうことなら、およばずながらお世話をすることにしましょう」

 

ようやく承知してくれたので、私は、この一刀を高杉に贈り、彼の門下に入った。
彼は、この刀がよほど気に入ったらしく、長崎で写真をとって、私のところへ送り届けてくれた。

 

高杉の教訓

以上のような経緯で近しい関係となり、奇傑の言動を目にして、多大なる感銘をうけたようである。

私が高杉を訪ねた時に高杉は王陽明全集を読んでいる際であった。高杉がいうには陽明の詩の中におもしろいものがあるといって書いてくれた。

   四十余年、瞬夢の中。
   而今(じこん)、醒眼、始めて朦朧。
   知らず、日すでに亨午を過ぎしを
   起つて高楼に向かって、暁鐘を撞く。

王陽明は、亨午(ひる)に至って、暁鐘をついたが、自分は、夕陽に及んで、まだ暁鐘がつけない始末だから情けない」
彼は、こういっていた。
(中略)
高杉の生涯は、極めて短い、慶応三年四月、下関で病死した時が、わずかに二十九歳であった。しかしながら、彼の一挙一動は、天下のさきがけとなって、闔藩(こうはん)の意気を鼓舞したのみならず、全国勤王運動家の指導者となっている。
 それでも、自分では夕陽に及んで、なお、暁鐘がつけないと嘆息しているくらい、その気性のはげしさは、驚くべきである。

またあるときはつぎのような教えを受けたという。

「死すべき時に死し、生くべき時に生くる、英雄豪傑のなすところである、両三年は、軽挙妄動をせずして、もっぱら学問をするがよい、そのうちには、英雄の死期がくるであろうから……」

 

「およそ英雄というものは、変なき時は、非人乞食となってかくれ、変ある時に及んで、竜のごとくに振舞わねばならない」

高杉の生涯はまさしく英雄の生涯だったと田中は語る。

 

田中光顕は97歳まで生きたことから「最後の志士」といわれる。そのため特別な健康法があるのかとたびたび訊かれた。特別な健康法はないが、「困った」という言葉を吐露しないことは、精神衛生上役だったにちがいないと語っている。
高杉は、「困った」とだけは言うなと堅くいましめていたそうだ。

男子というものは、困ったということは、決していうものじゃない。これは、自分は、父からやかましくいわれたが、自分どもは、とかく平生、つまらぬことに、何の気もなく困ったという癖がある、あれはよろしくない。いかなる難局に処しても、必ず、窮すれば通ずで、どうにかなるもんだ。困るなどということはあるものでない、自分が、御殿山の公使館を焼打ちに出かけた時には、まず井上(馨)が、木柵をのりこえて、中へ躍り込んだ、あとから同志がこれにつづいた。され、中へ入ったはいいが、このままにしておくと、出ることができない、元気一ぱいだから誰も、逃げ路まで工夫して、入りはしない、困ったなと口をついて出るところはここだが、自分はそこですぐに木柵を一本だけ、ごしごしと鋸で切り払って、人一人出入りするくらいな空処をつくった、それ焼打ちだぞと、館内ではさわぐ、同志のものが、逃げてくる、その時、おい、ここだここだと、一人ひとりそこをくぐらせて助け出したことがある。平生はむろん、死地に入り難局に処しても、困ったという一言だけは断じていうなかれ

 

 

機会さえあれば高杉の教訓を人に伝えていたと田中光顕は語る。

「高杉の精神気魄の全部とはいわず、その一部でも、後世に伝えておくことは、高杉の銅像を作るよりも、豊墳高碑を建てるよりも、ずっと有益だと考えているからである」

高杉が偉大であったことはもちろん、その遺風を伝えようとした田中光顕も立派である。ふたりの師弟関係、感銘、教訓は、維新史の一面を物語るものとして長く伝えられていくことだろう。