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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

禁門の変で自刃した久坂玄瑞の悔い

久坂玄瑞は、諌死者について念入りに研究していた。著名な人物はもちろんのこと、ほとんど名の知られていない人物についても、敬意を払って記事を読み、事細かく記録していた。


生死を顧みず、忠義のために諫言する。そうした人物に薫陶を受けていた久坂は、自らも同様の人物となるように励んでいた。それだけに禁門の変で敗れて死を覚悟したとき、暴発を止めるために諌死しなかったことを後悔したという。

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非戦論を主張

禁門の変が起きたのは元治元年(1864年)。事の発端は、前年に薩摩藩会津藩らがクーデターを起こし、京から長州勢を追放したことにある。(八月十八日の政変

 

そこで久坂は、朝廷に宥免を歎願し、勢力奪還すべく活動していた。

藩主である毛利敬親は、長州を出発する久坂にむかって、戦をしてはならぬと説諭している。

お前の志はよく分かっておる。しかし、今度は場所が場所だけに決して軽挙妄動してはならぬ。こちらから戦の火蓋をきって、朝敵の汚名を蒙ってはならぬ。

ついで目的が冤をすすぐことにあると戒める。

くれぐれも申しておくが、今回の東上は、決して戦争ではないぞ。あくまでも朝廷に対してお詫びを言上するのだから、歎願以上に出てはならぬぞ。

 藩主から直々に言い聞かされたこともあり、久坂は非戦論者だった。一方で主戦論を唱える来島又兵衛は、兵を率いて京に迫った。長州が追放されたのは、会津と薩摩の策謀であるから、会津と薩摩という君側の奸を討伐すべし、という意見だった。

それなので久坂の慎重論を聞いた来島は、
「貴公などは元来が医者の子だから、戦争がわからないだろう。戦争がこわいのだろう」
と罵倒したという。


「戦争、戦争と言うが、貴公のように、ただ戦争をするだけならこの久坂は眼をつぶっていてもやれる。しかしながら援軍がいない状況で決戦をやっては百敗あって一勝なきは火を見るより明らかだ。ただいたずらに相手の術中に陥って、叛逆者と呼ばれるようになり、愚の骨頂だ」
と、久坂は微笑しながら反論したものの、真木和泉が来島に同意する。

「事ここに至る。楠木正成の心をもって、足利尊氏の事を行うのみ」

この発言に全軍が奮いたった。進軍は止められぬと久坂は諦め、彼らとともに戦うことを決心した。

最期

進軍することが決まり各陣営が騒然とするなかにあって、久坂の陣営だけは粛然としていたという。あまりにも静かなので富永有隣は、
「久坂殿、えらい静かでござるな」
と訊ねた。

すると久坂は、
「無事、有事のごときは、なお有事、無事のごとし」
と返答して書物を読み続けた。

 

久坂はどんな局面においても平常心を失わなかった。配下の士卒もそれに感化され、粛然としていたのだという。それは戦闘においても同様だった。禁門の変で奮戦しながらも、当初の目的である宥免を嘆願すべく、鷹司邸の裏門から上って入り、鷹司関白に取り次ぎを請願している。しかし承諾をえることができず、鷹司関白に逃げられてしまう。
鷹司邸はすでに敵が幾重にも包囲していて、敵味方が入り乱れ、ついに久坂は負傷してしまう。

 

外に出ることも困難な状況となり、品川弥二郎らも死を決していたのだが、それを察した久坂は、
「ここで皆が死んでは、折角の誠意がわからなくなってしまう。皆が死ぬ必要はない。それよりまだのちに為すべきことがあるから、ここから逃げてくれ。自分は責任があるから、ここを立ち去ることはできない。このような事態になった以上、犠牲とならなければいけないのだ」
と言い聞かせた。その後、品川弥二郎はどうにか血路を開いて、天王山に退却したという。


松平容保が風上に火を放ち、鷹司邸は炎上した。その焔のなかで久坂は最期をむかえる。

「ああ、私が死んでも罪は残る。たとえ死ぬとしても、来翁(来島)を諫めねばならなかった」
と、自らが長年研究していた諌死者とはなれず、事を誤り、多数の犠牲者を出したことを痛悔したという。