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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

前島密の江戸遷都論と大久保利通の果断

大久保は創案する人ではなく、すぐれた意見を採りいれて、それを実現に運ぶところに特徴があった。池辺三山はつぎのように書いている。

大久保には、自分独りで考えた方針主義というものは、どうにも見当たらない。尊王、討幕、開国進取、遷都、廃藩置県、西洋の文物採用、皆自己の発明ではない。しかしその時分の交友とか版行とかの説で、最善と思うものを深思熟慮の上でこれを執って、従って堅くそれを守るという、執着力の強い性質である。――池辺三山『明治維新三大政治家―大久保・岩倉・伊藤論 

大坂遷都にしても、伊地知正治の持論を大久保が採りいれたものだといわれる。東京奠都にしても、前島密の江戸遷都論があり、大木喬任江藤新平ら東西両都論などがあり、最終的には東京奠都となる。大久保が独創したものはない。だからこそ、我見に固執せず、公平にみて最善のものを採用できたのかもしれない。

 

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江戸遷都論

前島の「江戸遷都論」は、大久保の「大阪遷都論」に触発されたものである。前島密(前島来輔の名義で出されていた)の投書には、大久保の遷都論に「感歎敬服した」と書きながらも、遷都の地としては大阪ではなく、江戸こそがふさわしいと説いている。

関東奥羽の諸侯が抵抗しているのは、薩摩と長州が官軍を名のりながら、その実態は虎狼の欲をほしいままにするのではないかと疑っているためであります。それゆえ、誠心誠意をもって王政維新の大業を成そうとしていることを理解させれば、官軍に抵抗するものはいなくなるでしょう。江戸を都とする大英断により、鳳輦東下の大令を下せば、すぐにでも群衆は歓呼をあげ、鳳輦を迎えるでしょう。これにより先生(大久保)のいうところの、天下慄動する処の大基礎を建てて、皇威を海外に輝し、万国に御対立することができるでしょう。
遷都は国の大事であります。内治外交に最良であり、万世不抜の地を選択すること実に肝要です。そして江戸遷都の利はあり、浪華の利無き要項を副陳しますので、ご参照にしてください。(意訳)

副陳書では、

  • 蝦夷地を含めた場合、江戸が日本の中心にあたる
  • 蝦夷地の開発を早急にすすめなければいけず、そのためにも江戸は重要な拠点となる
  • 大阪は商業都市として発展しているので廃れないが、幕府を失った江戸は廃れるおそれがある

ということなどが書かれている。

大久保の感謝

前島の建白が決定打となったわけではないものの、大久保に影響を与えたのは事実であり、明治9年の春頃、大久保と前島は以下のようなやりとりをしている。

「予の大阪遷都論を駁して、遷都の地は江戸に如くものあるべからずと論じて、書を投じた江戸人がいた。その人の名字は、君とおなじ前島であり、名は来輔と覚えている。この事実を記録して、大いに感謝するべきなのに、その投書を失ってしまい、今も当人について知ることができずにいる」
と大久保は前島密に語りかける。発言からわかるとおり、江戸遷都論を投書した前島来輔が、前島密その人であるとは知らなかった。
 
己の功績を誇ることを好まぬ前島は、これまで江戸遷都論について人に語っていなかった。それゆえ明治政府に仕えたあとも、大久保に知られなかったのであろう。

「それは只今御前にある前島密のことです」
と、前島は打ち明ける。すると大久保は、前島の顔を注視してから、立ちあがりテーブルを叩く。
「ああ、それは君であったか」
と嘆賞したあと、迂闊であることを詫び、できることならば投書の稿を譲ってほしいと頼んでいる。前島は写しを書いて提出すると約束したものの、提出するよりもさきに大久保が暗殺されてしまったと『前島密自叙伝 』にある。

大久保の果断によって繁昌した

勝海舟は、東京が繁昌できた理由として、大久保が果断を下し、遷都を決定したからだと語っている。実際、東京奠都がなければ、関東の人心を収攬できなかったかもしれない。

すでに述べてきたとおり、大久保は公平に意見を受け容れ、それを最善の形にするべく尽力した。明治政府の基礎は、こうした大久保の力による部分が大きかったといえるのではないだろうか。

明治維新三大政治家―大久保・岩倉・伊藤論 (中公文庫 M 19)