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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

最善を得ざれば次善を取り、次善を得ざれば三善を取る――大阪遷都論にみる大久保利通の政治力

大久保利通の大坂遷都論は、大政奉還以上の衝激だったと佐々木克氏は語る。その衝激の大きさのために公卿の反発は大きく、廟議でも否決された。それでも大久保は屈しなかった。表面的に妥協しながらも強固な意志を貫き、臨機応変に対処し、目的としていたところは成し遂げられている。

大久保利通 (中公新書―維新前夜の群像 (190))


大阪遷都論の目的

大久保が遷都を主張したのは、慶応4年1月。遷都そのものよりも「朝廷の旧弊御一新」こそが目的だった。

主上の在す所を雲上といい、公卿方を雲上人と唱え、竜顔は拝し難きものと思い、玉体は寸地を踏みたまわざるものと、あまりに推尊し奉りて……」
と民衆との間に隔絶が生じていることを大久保は問題視した。このために様々な弊害が生みだされ、あるいは弊習が醸成されていたのである。

「即今外国においても帝王従者一二を率いて国中を歩き、万民を撫育」している。これこそ、「実に君道を行うものというべ」きである。日本でもこれにならい、「民の父母たる天賦の君道を履行せられ、命令一たび下りて、天下慄動する処の大基礎」を建てなければいけない、それにより「皇威を海外に輝し、万国に御対立」できる。そした政治を行うにふさわしく、また外交、富国強兵、陸海軍の統括に適しているのが大阪である、というのがその主張であった。


徳富蘇峰は、大阪遷都論における遷都は単なる形式であり、「これは上下一致、盛んに経綸を行わんとする大覚悟、大精神、大希望、大作用を唱提したものだ」と言っている。(『大久保甲東先生』)

すなわち時勢にそぐわない弊習を打破し、繁文縟礼をなくし、政事を簡潔にして、天皇自らが率先して御一新の精神を体現すべきと主張したのだろう。

反発を受け大阪行幸となる

薩長天子を挟制するの策あり」「薩に奸謀あり」などと公卿の反発は大きかったため、大坂遷都は衆議によって否決。それを受け、岩倉具視は大坂への行幸を発議し、浪華行幸がおこなわれることとなる。佐々木克氏は、
「遷都案がだめなら大坂行幸をと、当初から二段がまえの戦略だったのではなかろうか。まず遷都という衝撃的なストレートを投じ、次の行幸という柔らかなカーブで誘いをかける、という策戦である」と考察している。

 

大久保の目的は宮廷の改革にあり、遷都は改革を円滑に遂行するための手段にすぎなかった。遷都が行幸にスケールダウンしたとはいえ、それはなんら問題ではなかった。反対意見に屈服したのでもなかった。大改革の方針を貫徹させるために、局所的に妥協したのであり、「最善を得ざれば次善を取り、次善を得ざれば三善を取るというごとく、ある意味においては大なる臨機応変者であった」と蘇峰が評したように、大久保は状況に応じて柔軟に対処し、粘り強く改革を進めるのである。

  • 公卿や女官勢力を排除
  • 「万機を総裁し、一切の事務を決す」役割を担っていた総裁を廃止
  • 天皇が自ら政治を執る体制を確立。(これは『五箇条の誓文』の趣旨を官制化したもの。いわゆる天皇親政)

これらの改革により、より優れた君主となられる環境を構築し、政務を簡捷に処理できる体制を確立した。簡単にいうならば、英君のもとで民意を反映した善政が行われ、それにより国民が奮励する、という上下一貫した維新を目指した。ここに大久保の政治理念があり、それを実現させる政治手腕があった。

明治天皇に拝謁

浪華行幸中の4月9日、大久保は天皇に拝謁した。藩士が拝謁することは、大久保が日記に記しているように前代未聞のことであった。また日記には、「実に卑賎の小子、殊に不肖短才にしてかくのごとき玉座を穢し奉り候義、言語に絶し、恐懼の次第、一身に余る仕合に候。感涙のほかこれなく」と書いている。主上からの御言葉を賜ったことは当然ながら、上下が隔絶していた弊習が取り除かれ、君民一体となる維新が実現しつつあることもまた、感慨を深めたのだろう。

 

大坂遷都論そのものは実現しなかったとはいえ、目的としていた改革は成功しつつあった。これは大久保の政治力に負うところが多い。一方で、公卿の反発を恐れずに、理念を主張したことは、有志家に感銘を与え、国内統一に大きな役割を果たす。すなわち江戸遷都論が投書され、東京奠都へと発展するのである。