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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

大山巌の学問と韜晦

大山巌は、兵士に学問させるか否かで桐野利秋と言い争ったことがある。

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「兵隊の調練がないときは、遊ばせておくよりも学問をさせたほうが良かろう」
というのが大山の意見だったが、
「兵隊に学問はいらぬ」
と桐野は反対した。

そこで大山はナポレオンが学問に打ち込んだことにより、士官から皇帝に登りつめたと熱弁する。桐野は、豊臣秀吉を例としてあげ、学問などなくても天下は掌握できると譲らない。両者の議論はしだいに熱を帯び、他の将校たちが間に入ってやっと止めたほどで、とくに大山巌の激昂は凄まじかったといわれる。

 

学問の重要性を論じた大山巌は、当然ながら篤学の士だった。しかもその形跡を人に悟らせず、部下にすら「馬鹿だか利口だかわからない」と思われていたほどで、世間一般には、大山巌の学識は知られていなかった。石黒忠悳(いしぐろ ただのり)の自伝には、大山巌の文学への造詣の深さを物語るエピソードが載せてある。

 

懐旧九十年 (岩波文庫 青 161-1)

石黒忠悳が見た大山巌の本質

 

明治30年、石黒忠悳は軍医を退職し、大山巌も陸軍大臣を辞職していたのだが、
「私は辞職しても一向閑散な身にはなれず、かえって訪客のために忙殺されて閉口する。役所に出ている時よりも、かえって閑(ひま)がないくらいだ。何とか好い方法がないものか」
大山巌は嘆じていた。

「私とても御同様です。しかし閑になろうと思えば何でもないことです。ぶらりと伴も連れずに旅に出ることです」

「君が行くなら、一緒に出かけよう」

そこで石黒は関西旅行を提案し、大山巌の書生を世話役として旅へと出発した。旅行中、大山巌はいたる所で古人の詩句を吟じた。沢山の書物を読んでいると察した石黒は、関西旅行により大山巌の性質を知ることができたと語る。

 

 大山公が、いかにも尨(ぼう)たる大きな輪郭で細事に拘泥せず、宏量に見られ、薩藩の出身でその大成に運が好かったのであるように言う人もありますが、私の見たところでは、大山公はその実すこぶる俊敏鋭利の質であるが、これを韜晦しておられたように思います。いっしょに関西旅行をして、公の性質を一層よく知ることが出来ました。


勤勉家であることが明らかになったのは、大山巌の死後だった。


その薨去後において、一層驚かされた事実があります。それは令嗣(れいし)、柏(かしわ)公が父公の伝記を作ろうとその手記類を取出したところ、大行李(おおごうり)に一杯もあり、その日清・日露役の手記などは、極めて詳細なものであり、古人の詩歌などを妙録したものも少なからずあって、明治二年から五年の頃、スイス・フランスに在留中、鉛筆で手記した備忘録・単語帳・会話篇・数学練習帖等も数冊あります。殊に驚かされたのは、三角術研究の手帖で、公は生前常に、算数のような細かいものは関知するところではない旨を言ってこれを口にせず、他人もまた公が数学をこれほど勉強しておられたとは想像もしなかったことです。
 大山公が十を学んで、十二にも十三にも応用し得る叡知を有しながら、一も学んだことがないように終生韜晦されたことは、真に非凡の大をなした所以で、かくてこそ将に将たる大才というべきで、児玉源太郎伯が常に公を偉才だといわれたが、偉才よく偉才を知るというべきだと思います。


従兄にあたる西郷隆盛にしても、奄美大島で700冊もの書物を読んでいたが、知識を鼻にかけることなく、むしろ何も知らないかのように振る舞っていた。大山巌も、そのような西郷の姿を彷彿とさせる。彼らは孔子が言った「古の学者」のように、人に認められるためではなく、己を磨くために学んでいた。であるからこそ尊大になることなく、韜晦していても平気であり、人を惹きつける童心を保ち続けられたのかもしれない。