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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

榎本武揚と談じて、旧幕府軍に加わった林董

幕末・維新

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イギリスに留学していた林董は、戊辰戦争が勃発したため帰国する。

帰国の途次、セイロン島で読んだ新聞により上野で彰義隊が奮戦しているのを知ったようだが、この時点で旧幕府勢力に加わるつもりがあったかは不明である。刀を売却し渡米しようとしていた彼は、幕府を救うことよりも、日本社会そのものの発展を考えていたようにおもう。

そんな彼が、旧幕府勢力のために一命を抛とうとしたのは、榎本武揚と談論したためだった。

 

君辱められるときは臣死す

 

林は6月上旬横浜に到着。両国薬研堀にある林家に逗留していた20日、榎本武揚が訪れた。*1

内容は不明だが、ふたりは時勢について語りあい、その結果、林は慷慨を禁じえず、開陽丸に乗船したいと申し出る。

「横浜の御老人たちの許可あらば鬼も角もとりはからわん」
と榎本は返答する。つまり、実父・佐藤泰然が認めるならば、開陽丸に乗せようと言った。


そこで林は横浜へ行き、両親にその志すところを陳述して許可を請う。このとき佐藤泰然はつぎのように語った。


「幕府の政は腐敗をきわめていたのだから、滅亡するのは数(すう)である。また朝廷のもとで政権を一つにして、政令が統一されることは国家のために賀すべきことだ。しかしながら人には節操というものがある。たとえ一日であろうとも主君と仰いだ家が滅亡するときには、いわゆる君辱めらるる時は臣死すの訓により命を軽んじるは武士たるの道だ。おまえの志すところは我が好しとするところだから望むように進退しなさい。数にも足らぬ身を持ちながら大義名分などと称する言葉の蔭に立ち、身の危うきを避けようとするのは臆病の至りで我の卑しむところである
と林董を励ましたのである。


こうして林は、見習いの士官として開陽丸に乗りこむ。慶応4年6月22、3日頃の話だ。


徳川家の処分が決定したのを見届けて、19日の夜、支配下の軍艦とともに品川沖を出帆。このとき脱走の主意書をパークスに送っている。これは榎本武揚と永井玄蕃が起草して、林董が英文に翻訳したものだった。林董は語学力を活かして、外国人との応接文書照会の任にあたったという。

 

もちろん宮古湾海戦の作戦に従事したり(暴風雨に巻き込まれ戦闘には参加していない)、箱館湾海戦などにも参加している。彼は文官としてだけではなく、武人としても活躍していた。

 

このように旧幕勢力に加わり、蝦夷共和国の一員として働いたことは、彼の経歴としてはマイナスだが、貴重な経験をしているのも事実だろう。後年、榎本武揚外務大臣となったときに、林が外務次官に抜擢されたのは、このときの働きぶりによるものが大きかったのではないだろうか。

*1:榎本武揚は、林洞海の次女(多津)を妻にもらっていたので、林家を訪問したという。多津は、林董の実姉(つる)の次女にあたる。董が林家の養子になった関係で義理の姉にあたる。

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