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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

幕府の命を受けイギリスに留学する——林董

幕末・維新

英語を学んだ話の続きで、今回は林董の英国留学について。

 

 留学生に選ばれる

林董は15歳のとき、イギリス留学の話を耳にした。これは福沢諭吉が提案し、幕府が採用したものだった。


林はぜひとも留学したいと思い、”あらゆる手づるをつかい”開成所で試験を受ける。受験者は80名ほどいた。慶応2年にイギリス留学の命が下される。このとき林董は17歳。

 

メンバーは中村敬宇(正直)、福沢英之助(福沢諭吉の従弟)、川路太郎(寛堂)、外山捨八、箕作奎吾、箕作大六(菊池大麓)、市川森三郎、湯浅源二、伊藤昌之助(岡保義)、安井真八郎、成瀬錠五郎、奥川一郎、杉徳三郎の総勢14名だった。

 

10月初旬に出発。その日、横浜は開港以降初めての大火災に見舞われたという。

 

55日*1ほどでイギリスに到着。はじめはハイドパーク北ランカスターゲートでホームステイしていた。そこで教師を招き英語と数学を習っている。

その翌年、留学生はバラバラになり、林董はノッティンガムのジョン・オークリー・クラークという人の家に下宿した。この家族とは、明治33年に公使として渡英したときにも交際があったという。のち、再びハイドパークへ戻り、留学生14名は同じスクールに通う。

刀を売ってアメリカへ渡ろうとした

慶応4年、鳥羽伏見で戦端が開かれ、幕府存亡の危機だという風聞が伝えられる。そのため幕府の命でヨーロッパに派遣されていた留学生の帰国が決まる。

 

だが董は、
「せっかく宿望を遂げて海外に留学しながら、一事も得たることなくして帰朝するはいかにも残念なり」
と考えた。

 

そこでアメリカに渡ることを思い立つ。アメリカには親切な人が多く、渡航さえすればあとは運任せでどうにかなる。うまくいけばジョセフ・ヒコ(アメリカ彦蔵)のように世話してもらい、学問も進むだろう、と。

 

とはいえ旅費の調達は容易ではない。そこで彼は大小の刀を売り払い、渡米する資金にしようと考えた。

 

支那・日本品等を店頭に陳列している家に行き談じたが、はじめ提示された値段があまりにも安く、林はこの刀がいかに大切なものであるかを説明した。

この刀は日本を出発する直前、父から「祖父伝来の品」として賜った大小であり、金具の彫刻が名作であることも聞かせたのである。

しかし店主は、
「元来英国人は日本刀が珍しき故に買う者あれど、品のよろしきを選みて買う者はなし。売れない品を店に置いても詮なければ買うのはむずかしい」
と答え、アメリカに渡ることは断念しなければいけなくなった。

帰国

留学期間は一年半程度にすぎなかったが、林は優れた語学力に達していたといわれる。『後は昔の記 他―林董回顧録 』の解説に次のような話がある。

 

慶応2年イギリス留学生として渡英した際、ほとんどの人が英語を読む程度でしかなかったなかにあって、当時十七歳の林一人だけ、外国人と自由に言葉を交わすことができたという。(同行者の一人菊池大麓の談話)

 

帰国後、榎本武揚に協力して蝦夷共和国の一員となり、その語学力でサポートしている。榎本武揚に協力する経緯については、次回述べたい。

 

*1:回顧録では55日、『後は昔の記』では65日となっている

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