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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

日英同盟を締結させた林董の少年時代

幕末・維新

林董(はやす ただす)は日英同盟を締結させた外交官として知られる。彼の著作『後は昔の記 他―林董回顧録 』を読むと、生まれた家庭、育った環境により外交官となることは運命づけられていたようにおもえる。

 

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父・佐藤泰然

林董の父・佐藤泰然(さとう たいぜん)はめずらしい話を好む人で、ロシアに漂流した船頭の話を好んで聞いていたという。そしてロシアの医術について聞き感得することがあり、西洋の医学を志すようになった。

後年、佐倉で順天堂塾を創立。蘭学を志した人は、東の順天堂塾か西の緒方洪庵適塾から学んだといわれる。学風は、適塾がもっぱら蘭学を主としたのにたいし、順天堂塾では医学の学理と実践をあわせ教えたところに特徴があった。(由井正臣の注釈)

佐藤泰然という開明的な父がいたことで攘夷思想とは縁がなく、積極的に欧米の文化を摂取できたのだろう。

 

少年時代

日米和親条約

日米和親条約が締結されたのは安政元年三月三日。このとき五歳だった林は、母とともに江ノ島、鎌倉、金沢を巡遊していた。そして帰路の神奈川で一泊したとき旅宿の店主から、
「今日は、むこうに見える横浜村で和親条約のとり決めがある日です」
と聞かされ、その意味を母に尋ねたという。この頃から、外交に関心を抱きはじめたのかもしれない。

西洋人を見る

はじめて西洋人を見たのは、母にともなわれて浅草観音に参詣したときだった。


その日に西洋人が訪れることは事前に通知されていたらしく見物客が集まっていた。西洋人は大勢の警護をともない観音堂に上った。彼らの衣装は金の刺繍がほどこされて美しく、胸面には勲章を帯びて威風堂々としていた。

彼らの凜然とした姿に林董は欽慕の念をいだき、母にその気持ちを打ちあけると、
「勉強さえすれば、誰でもあの様になれるのですよ」
と諭された。

この言葉は「今にも耳底に残るがごとき心地す」と自叙伝に書いている。のちに英語を学ぶうえではげましの言葉となったのだろう。


英語を学ぶ

文久2年*1、佐藤泰然が横浜へ移住し、その同年に董も母とともに横浜へ行ったという。このとき董は林家の養子になっている。

横浜へ移住したのは、「英語を学ぶこと肝要なり」という理由からだった。ここではアメリカ人の書記や、ジョセフ・ヒコ(アメリカ彦蔵)などから英語を学び、その後にヘボン夫人に就いて学んだという。

このように林董は英語を学び、のちイギリスに留学する。イギリス留学に関しては次回触れたい。

 

*1:泰然の横浜移住の年は、『回顧録』では文久元年、『後は昔の記』では文久2年と異なる。注釈では、文久2年が正しいであろうとしているのでそれに従う。

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