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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

西南戦争のとき大久保の代理をつとめた前島密

近代郵政の父として知られる前島密(まえじま ひそか)は、西南戦争のときに大久保の代理をつとめて内務にはげみながら薩軍に勝つため苦心していた。『前島密―前島密自叙伝 』のなかから逸話を紹介する。


大久保の代理となる

 

明治十年二月某日、大久保の使いの者が来て、朝起きたらすぐに内務省へ出るようにと伝言した。そこで前島が急いで内務省へ行くと、大久保は眉宇の間に憂色を浮かべていたという。
 
西郷のことで何かあったのだろうと察して訊くと、大久保は沈黙を破り、
「彼は遂に出た。これによって予が考慮は国事諸般にわたり昨夜眠ることができず、すこし頭が重い」(意訳)と言った。その後、大久保は太政官へむかった――

 

以上は前島が、追懐した手記の内容である。『大久保利通』に載せられている懐旧談では大久保との会話は下記のように語られている。

 

「いよいよ西郷が出た、昨夕電報が来たが、案外早かったので愕いた」と言われた。(大久保は)平生沈毅な寡黙な喜怒の少しも色に出ぬ人であったので、
「どうも顔色がお悪い、眉宇の間が黒う見えます」と言ったら、
「そうだろう、昨夕は一睡もしなかった」と言って、すぐ太政官(だじょうかん)へ行かれた。

 

太政官へ行った大久保が、再び内務省に戻ってきたときには顔色が戻っていた。しかも気迫は普段よりも盛んになり、
「廟議はすでに定まった。予はこれより直に京都に赴く、代理は足下に任せる。常務とともに東京の警察のこと、東北殊に庄内等の挙動に注意すべし」(手記の意訳)
と告げた。

代理を任せたことから、前島が大久保に信頼されていたのがうかがえる。そしてそのために彼は多忙になるのだが、その後に川路が戦地にむかい、さらに激務をこなすことになる。


巡査徴募 

西南戦争では、旧士族を巡査として徴募し、戦地に派遣していた。その理由については『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦 』では下記のように説明している。

 

当時の徴兵制度では免疫適用者が多く後備兵も十分でなかったためで、政府内では、戦力が不安視され訓練に手間のかかる徴兵より、即戦力の士族を募集すべきだという声が挙がる。

本来ならば大警視川路利良が徴募の任務にあたるべきであるが、川路は戦地におもむいていたため、前島が担当した。このとき機略を働かせ、官軍の勝利に貢献している。

 

その機略とは、戊辰戦争のとき賊軍となった地の旧士族を巡査に取りたて、彼らの薩摩への敵愾心を利用して、官軍の士気をあげたのである。これは絶大な効果を発揮した。

 

とくに旧会津藩出身の活躍はよく知られている。ある巡査隊は、「戊辰の復讐、戊辰の復讐」と叫びながら戦い、薩軍を苦しめたと当時の新聞に記されている。

また旧会津藩士の佐川官兵衛、元新撰組斉藤一が巡査として戦闘に加わっていたのは有名であろう。

 

前島が巡査徴募のために苦労した事実はあまり知られていない。ただし、前島の才略に助けられた川路は、後年まで感謝したという。

 

激務

前島がどれほど身を粉にして任務に当たったかは、その当時、枕についたのは一ヶ月のうち三日か四日だったというエピソードが物語っている。

 

彼は、帰宅してからも山積みになった帳簿を検閲していたので、ほぼ毎日徹夜していた。官吏の牟田口元学が電信暗号のことで、前島を訪ねたところ、すでに深夜なので布団に入っているかと思ったら、居室へ通され、そこで事務をこなしていたので驚いたことがあったそうだ。

 

こうした連夜の過労のために神経衰弱にかかり、夕方役所から帰ると事務に堪えられなくなった。それでも屈することなく、自分は寝ながら細君に書類を読ませて、それを聞いて処理されたという。

 

前線で活躍した将兵だけではなく、前島密のように後方で尽力した人物がいたからこそ西南戦争が全国規模の内戦にならなかった。そうして人々が維新の理念のもとで統一されたといえるだろう。