林董が語る西南戦争のときに見せた大久保利通の果断
林董(はやし ただす)は、西南戦争当時を回想して、大久保利通の偉大さを認知したのは反乱が勃発したときであったと語っている。
『後は昔の記 他―林董回顧録 』に収録されている「回顧録」「後は昔の記」の内容を整理して、大久保を日本史上有数の政治家と評した理由をまとめてみる。
岩倉使節団のころの印象
林は、岩倉使節団の一員として、アメリカとヨーロッパを巡っている。そのとき政務上の用談があり大久保と接していたがその印象は、
「なにごとについても別に意見を述べられることもなく、議論もなく、話説もなく、ただ緘黙(かんもく)しておられるのみゆえ、薩摩藩は王政維新に功があるので、薩藩の人であれば、このような人もまだ参議の上席を占めているのか」
というもので、実力というよりも薩摩藩の後ろ盾があるから参議になっていると感じたようだ。
西南戦争勃発時の処置
大久保の印象は、西南戦争勃発したときの挙止によって一変する。
明治十年の二月、明治天皇は京都に行幸されていて*1、政府要人のひとりとして林董も京都にいた。大久保はこのとき政務を監督するため、東京に残っている。
その数日後、西郷が熊本城を包囲したと伝えられると、それまでにぎやかだった京都が、たちまち混乱したという。
京都には伊藤博文、山県有朋、三条実美、木戸孝允ほか、文武の大官が多くいたわけだが、西郷決起と伝えられると議論紛々として意見がまとまらず、その有様は「鼎の沸くが如くだった」という。
二月十六日*2、大久保は玄武丸に乗って神戸へ来着。伊藤が出迎えのため神戸に赴き、林はこれに随行していた。夜十一時に乗車した汽車の上等室には、大久保、伊藤、林の三名だけで、伊藤が鹿児島の情勢と、京都の情況を伝える。大久保は「緘黙して聴いておられた」とのことである。
そのうち汽車が六条停車場に着き、迎えの馬車に三人で乗り、大久保を旅館に送ったあと、伊藤と林は旅館に帰った。
翌日早朝、発令があり、前日まで動揺していた政府とは打って変わって、方針が次々と決定され*3、鼎の沸くが如きだった有様が掌を返したように静粛したという。
この裁決流れるがごとき果断を見て、「大久保は明治年間のみならず、日本の歴史中まさしく有数の政治家である」と語っている。すなわち、決断力があり、危に臨んでも意見が揺るがないことこそが棟梁の材、社稷(しゃしょく)の臣であり、それはまさしく大久保その人のことだと感歎敬服したという。