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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

万物一体となり永生する西郷隆盛――敬天愛人について4

西郷隆盛は、西南戦争によって敗亡したのではない。それどころか永生の道を見いだしている。 

彼は城山陥落とともに介錯され、対立した大久保もその数ヶ月後に紀尾井坂で暗殺されるが、その後の日本において、西郷の信奉者が多数いること、大久保の政策を引き継いだ政治家がいたことを見れば、勝敗など問題ではない。

 

とくに西郷は勝敗を度外視して、条理のためならば斃れるのを辞さなかった。そこに敬天愛人の一念があったことはいうまでもない。そのことについて考えてみたい。

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私学校

私学校は明治七年に設立され、西郷の腹心である篠原国幹村田新八らの指導により経書による人格形成、および実戦の訓練がおこなわれていた。
 
これらは政府打倒の野心によるものではなく、国難にそなえたものである。すなわち現政府の方針では大乱をまねくのは必至であり、そうなったときに天下を救済する目的があった。

 

たとえば桐野利秋は、

「条理を守り、時勢を待ち、天も人も決起を求めるとき義務によって起つ。もし、功を成すために起つならば、民衆を苦しめるだけだ」(意訳)

ということを言っている。

桐野は条約改正を課題として挙げ、政府が消極的姿勢でのぞみ、不利なまま条約を締結してしまえば後患をまねくことになるので、そのときこそ起つべきだ、としている。

 

村田新八の意見も同様だ。肥後からきた池辺吉十郎と佐々友房に、政府が樺太をロシアに譲渡した行為は国威を貶めるのだから、それを大義名分として起つべきではないかと問われ、
「鹿児島の壮士も、君とおなじ意見である。西郷はそれを鎮圧し、暴発させぬのだ。機が熟していないときに起てば、いたずらに良民の艱苦を増やすのみ。これは決して国家の幸福にならない」(意訳)

と答えている。

 


桐野、村田の意見によれば、西郷は国際情勢を重視するとともに、民政も重要視していたことがわかる。ここに敬天愛人の発展した政治観が見出せる。

 

決起

遠大な構想をいだいていた西郷が起つことになったのは、私学校生徒の火薬庫襲撃や、視察団による西郷暗殺計画の露呈(真相は不明だが)などのためだった。

そして明治10年2月15日、一万三千人の兵を率いて行軍を開始した。

目的

上京の目的は、暗殺計画を「政府に訊問する」ためであり、兵は護衛として随従していた。それに加えて西郷らは、通行する各県に上京の理由を通達して、人々が騒動を起こさないように対応してほしいと懇請している。これらのことから武力行使せず解決したかったと考えられる。

 

そのことは鹿児島県令の大山綱良に語っている内容からもあきらかだ。

「自分は征韓論のとき、近衛隊が暴発するのを防ごうと彼らをつれ帰り、人数をまとめて将来の外患にそなえようと考えていた。しかし今の事態にいたり兵をつれて上京するが、それでもし政府が自分を非だとするなら甘んじて罪に服しよう。ともかく大久保と面会してみないと、その曲直もわからない。どうして彼は自分が反乱を起こすなどと思ったのか問いただそう。いったい大久保は、幼年より一家親子同様の交わりを結んできたもの、自分に嫌疑があるなら、すぐ上京させるか自ら帰県して話し合うか、せめて手紙でもよこすべきなのに、それもせず不都合だ」

――上田滋『西郷隆盛の世界 

 

鹿児島行きを止められた大久保 

じつは大久保のほうでも鹿児島に行き、西郷を説得するつもりだった。しかし、会えば二人は刺しちがえるにちがいない、と危惧した伊藤博文によって止められている。

もっとも大久保がおもむいたところで解決したかは疑問である。海軍の川村純義が西郷と会見しようとしたときも、桐野らによってとめられているのだから。 

油断あるいは過信

西郷は上京についてかなり楽観視していたようだ。
「二月下旬から三月上旬までには大坂に達するつもりである」
と、二週間ほどで上京できると大山綱良に語っている。

徳富蘇峰が指摘するように、無意識のうちに自己陶酔していたのかもしれない。おのれが起てば人々が歓迎するだろう、もし抵抗するものがあれば踏みつぶして通行する――と。

けれど軍略に長け、しかも大義名分を重んじる西郷が安易な観測で挙兵するとはおもえない。おそらく上京の名目は暗殺計画を「政府に訊問する」ためとして、もしそれを政府が妨害するならば、そのときこそ挙兵の大義名分とできるとしたのではないか。西郷自身は、あくまで条理に基づいて行動しているつもりだったが、それにもかかわらず政府が危害を加えるならば、理非曲直があきらかになり、有志が各地で呼応すると見込んでいたのだろう。
 

しかしこれらの予想に反し、政府の迅速な対応のため薩軍は窮地におちいり、反乱が他県へ拡大する前に鎮圧され、その油断あるいは過信が敗戦にむすびついてしまう。

 

永生へ

西郷は、開戦したのちの大山綱良宛の書簡で、
「私どもは、はじめから勝敗を問題にせず、一つの条理に斃れようとの決心なのです
と、述べている。しかもこれは自軍が優勢だと信じていたときの書簡である(実際には優勢といえないのだが薩軍では優勢だと捉えていたらしい)。

この決心は、優勢なときも、劣勢になってからもかわらず西郷の胸に宿っていたのだろう。

 

「条理に斃れようとの決心」との言葉から、南洲翁遺訓の以下の箇所が思い出される。

 

十七 正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。


十八 国の陵辱せらるるに当たりては、たとえ国を以て斃るる共、正道を踏み、義を尽くすは政府の本務なり。

 

この理念を自ら体現することで、世間さらには後世に政府の本務とはなにかを示しているようでもある。つまり、戦争での勝敗は西郷にとって重要ではなく、いかなるときも挙動を条理によって貫徹させ、万物一体を実現するところに意識があったのではないだろうか。

 
道を行うには、天を敬するを目的とする——というのも、天が万物を生生化育するように、己も万人を教化してこそ天理と同一になり、さらには万物と一体となることを意味していると思われる。

 

西郷は身を殺して仁を成し、万物一体の明徳を明らかした。その光明が、多大なる感化を与えているのはいうまでもない。

 

徳富蘇峰西南戦争のあとに鹿児島を訪れ、以下のような印象を受けたと書いている。

 

 彼らは十年の乱のために財を失い、人を失い、容易に忘れ難き苦悩をこうむった。しかも彼らの何人も、西郷にむかって怨言を発するものなく、否ただ死せる西郷先生を、今なお生ける西郷先生のごとく崇拝し、愛慕している。これは何故であるか。西郷の自ら私せざる精神の、すべての人に貫徹したるためである。いわば、一万二千の子弟は西郷に情死したが、西郷もまた一万二千の子弟と情死した。一方は一であり、他は一万二千である、もしくはそれ以上である。しかも両者互いになんら咎むるところなく、怨むところなく、いわゆる仁を求めて仁を得たるものというべきであろう。
 西郷がいかなる人物であったかは、なお検討に待つものがあるかもしれぬ。西郷が維新回天の偉業における殊勲者であることは、天下の公論すでに定まっている。しかし西郷が日本国民に、生ける英雄として千古に存する所以は、その殊勲でなく、彼が国家に奉仕せんとする偉なる心の持ち主であったからである。
 西郷は永く死せず。日本国の存する限り、彼は日本国とともに生きるであろう。大和民族の存する限り、彼は大和民族とともに生きるであろう。――徳富蘇峰近世日本国民史西南の役 7 西南役終局篇 

 

また別の観点からいえば、明治の発展は西郷の犠牲があったからこそ成り立ったといえる。官軍は西郷と戦ったことにより鍛えられ、軍備や通信、医療などの近代化に成功し、しかも徴兵が薩摩隼人に打ち勝ったという自信が得られた。これらが日清戦争日露戦争の勝利に大きく関係しているのだ。
 
敗北が決まってからも西郷が抗戦した理由のひとつは、官軍を鍛えるためだったといわれているが、その目的は見事に成し遂げられたといえよう。

 

彼の求めた敬天愛人は死によってひろく知られることになり、死に臨んでも万物一体の境地がゆるがなかったことで無限なる感化を生みだした。そこに西郷の偉大さがあるのだろう。