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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

西郷の天命観――敬天愛人について3

維新への胎動〈上〉寺田屋事件 (講談社学術文庫―近世日本国民史)

 

寺田屋事件西南戦争について考察したい。

どちらも西郷隆盛を苦慮させた事件であり、その衆望のために悲劇に巻きこまれたともいえる。あるいは見方を変えれば寺田屋事件により天理一体を確信し、西南戦争により万物一体となる境地を貫徹したといえるかもしれない。 

寺田屋事件の背景

 

寺田屋事件は久光が京に上ったときに起きた事件であり、薩摩藩士同士で斬りあい悲劇を演じた。この事件が起きたとき西郷は処罰されていて、惨劇の現場にはいなかった。しかし西郷の存在が事件に影響を与えている。

奄美大島から召還される

西郷隆盛奄美大島から召還されたのは、島津久光の率兵上京を成功させるため必要な人材と見られていたからだった。

上京の計画が本格化する前から西郷の復帰をのぞむ声があったものの、藩の実権を握っていた島津久光は許諾しなかった。

 

ここで手腕を発揮したのが大久保利通であった。率兵上京に乗りだすことが決まったとき、西郷の力量と人脈がなければ率兵上京は成功しない、と久光に説き、召還を実現させている。

そもそも率兵上京は島津斉彬が計画していたことで、急死したために実現できなかったが、久光は亡兄の遺志を継いで実現させようとしていた。西郷は斉彬の時代に率兵上京のため奔走していたので、斉彬の遺志を継ぐためには西郷が必要ともいえた。

西郷の反対

そんな大久保の期待に反し、西郷は率兵上京に反対した。のみならず久光に謁見したとき、「ジゴロ(田舎者)」だといい、久光の力量ではとうてい成功しないと批判している。内容を要約すれば次のとおりだ。

  • 藩主の後見役にすぎない久光では、名君斉彬と声望がちがう。
  • 久光が実権を握っているが、藩内を統制できていない。
  • 他藩と連携するべき国事なのに、薩藩のみで行おうとしている。
  • 幕府が意見を受け入れなかった場合の策を考えていない。


むろん批判するだけではなく西郷は代替案を提示する。しかし結局久光は出発時期を延期しただけで西郷の提案を受けいれなかった。

 

この謁見により、西郷と久光は相容れぬ関係となってしまう。これにより西郷は療養のためだとして指宿温泉へむかいそのまま隠遁しようとした。

浪士鎮撫

馬関へ

時局は西郷を表舞台へと引きずり込む。討幕派の志士が京に集まり、久光を討幕のために担ぎ上げようと策していたのである。そこで大久保は西郷のもとを訪れ、率兵上京のために力を尽くしてほしいと懇請する。

 

策には不満があったものの、志士を見棄てることはできず、また西郷に期待して集まっている者がいたのも事実だった。そこで先行して馬関へ行き、久光一行の到着を待つよう命じらた。

 

下関にある白石一郎宅跡


馬関では白石一郎宅に泊まり、同地にいた志士と談じたところ、どうやら上方の情勢が緊迫しており、急行して暴発を食い止めなければ今回の目的が失敗に終わると察した。
 

いかに緊迫していたかは、馬関で再会した平野国臣に、
「決策が立ったなら、共に戦って死にましょう」
と西郷が発言したことでもわかる。後に書簡で、この発言について次のように述べている。

 

平野以外の者でも、すべてみな死地にはいった兵です。生まれ故郷を捨て父母妻子に離れ、故斉彬公様の大志を慕って出てきた者、こういうと自慢のようになってしまいますが、彼らはこの私に期待して来ていたのですから、私が戦地にはいってゆかないことには死地の兵である彼らを救い出すことはできない事情だったのです。西郷隆盛語録 

大坂へ

久光一行が到着する前に、西郷は馬関を出発。すぐに過激派の策源地となっている大坂へむかった。当然のことながら、それを知った久光は激怒した。

 

大久保は事情をただすべく久光の許可をえて、西郷のもとへ飛んでいる。このとき談じた内容が本田親雄(ほんだ ちかお)の手記にある。

予(西郷)は浪士を誘いもせず、また嫌いもせず、ただ彼等が無謀の挙に出て、かえって大事を誤るを恐れるがゆえに、今日まで彼等を説き、鎮静せるをむねとせしは、一座の諸君が知るところにして、我が任ずるところなり。我一度足を挙げて、此の地をさらば、恐らくは無事を保ち難かるべし云々。

徳富蘇峰著『維新への胎動〈上〉寺田屋事件 (近世日本国民史)』本田親雄の手記)

 

以上が馬関を発した理由として西郷が語ったところである。大久保はこれに納得し、久光に報告するため急ぎ伏見を発った。


刺しちがえようとする大久保

大久保が兵庫へ出発したのち、長井雅楽が薩摩を牽制すべしという建白をした。西郷は、その建白を久光へ報告するため兵庫へむかう。

兵庫に着くとすぐに大久保の宿を訪ねた。そこで長井雅楽の建白について語りだしたが、大久保は、
「外で話そう」
と言って、人影のない夜の浜辺へとむかった。

その当時のやりとりについては本田親雄が後年税所篤に贈った書簡に記されている。それを意訳すれば以下のようになる。

 

 浪士鎮撫をしていた兄(西郷)の心事については、久光公に詳しく聞かせたけれど、もはや怒りを解かせることはできない。それどころか兄を捕縛せよとの命令をだしている。
 この境遇に陥ってしまったからには、おれ(大久保)も君側を退けられるだろう。大計画のために多年尽瘁したことも、こうなってしまえば画餅水泡に帰するは是非もない。これは天命なのだ。ならば兄は奸吏のために捕縛されるべきではない。自裁して死ぬべきだ。止めることはしないし、おれ自身この世に生きて何ができようか。ただ、死あるのみ。死ぬならば、必ず兄と刺しちがえて死ぬ。これは我が志であり、覚悟は決まっている。人のいない場所へ誘い出したのもそのためだ。

 

死を覚悟して迫った大久保に対して、西郷は従容としてつぎのように返答する。

これは君の言うこととは思えぬもの。久光公が激怒していることと君側の形勢がこのようになったのは今更どうしようもないが、おいは君がおもうように自裁処決するものではない。たとえ縲紲の辱めに逢い、いかなる憂き目を見るとも、忍んで命にしたがい、大計の前途を見ようと期する。君も同様にするべきだ。もし、今ここで吾等二人が刺しちがえて死ねば、天下の大事は去るだろう。ここまで進めてきた大計画は、誰にも継承できない。男児が忍耐して事に当たるはこういう時こそではないか。二人が死ねば皇室をどうすればいいのか。国家をどうばいいのか。辱めを忍び事に耐えるは、まさにこのときだ。

 
このように説得され、大久保は決心を翻したという。

 

 

天命観

かつて西郷は、月照と入水しながら自分一人蘇生し、以降「土中の死骨」というように己を死んだ身であるとしていた。その後奄美大島に遠島となり、約800冊の書物を精読しながら哲理を研鑽して、天命観を抱くようになる。

彼の天命観を簡単にいえば、天に命をあずけ、天理に身を捧げる、といえるだろう。だから、自殺にせよ、刺しちがえるせよ、天理に背いている。大久保は天命だと迫ったが、西郷からすれば悲観にすぎないとおもえたのではないか。

 

久光は「死罪一等を免じて遠島とする」と西郷の処罰を決めた。徳之島に流され、後日さらに苛酷な環境となる沖永良部島へ流される。このとき、寺田屋事件がおきている。過激派をおさえていた西郷がいなくなったことで薩摩藩士同士で斬りあってしまったのだ。

 

兵庫では、西郷と大久保は直接刺しちがえることはなかったとはいえ、後年の西南戦争により刺しちがえるかたちとなる。長くなってしまったので、そのことは次回詳しく見てみたい。

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