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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

西郷隆盛の慈愛――敬天愛人について1

西郷隆盛関連

西郷隆盛は感激家であった。日本史に感激家はあまた存在するなかで、もっとも大成した偉人が大西郷であり、大西郷がなにに感銘を受け、いかに刺激されたか究明すれば、大人物を組成している要素をあきらかにできるかもしれない。

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彼は「敬天愛人」——天を敬い、人を愛す——を重んじていた。これは西郷がもちいる前から存在した言葉であるけれど、古人のことばを借用し志向したのではなく、自身の経験から導きだされ、獲得された理念だったと思われる。

では西郷がいかにして敬天愛人へと至ったか。今回は、人民への慈愛を示したエピソードを紹介したい。


西郷はときおり迫田の詩を口ずさんだ

最初の上司迫田利斉

西郷は17歳から藩庁に出仕する。このときの上司は郡奉行・迫田利斉(さこた としなり)。迫田は、農民への愛情が深く、西郷にたいしても優しく、それでいて自身のことに関しては無欲な人柄だった。

超俗無欲な性質

迫田の家は壁が落ちて、ひさしが破れていたにもかかわらずそれに頓着することなく起居していた。当然あまもりするのだが、部屋の隅にあまみずが排水されるようにしただけで、本人は平然としていた。用談があって西郷が訪れたときも雨漏りがひどく二人は押し入れのなかで語りあったという。

 

薩摩藩で生活に苦しんでいる人を救済しよとしたとき、迫田も対象者となっていた。

そこで役員が迫田に、

「救済を受けたらどうでしょうか」

と声をかけた。

すると迫田は気遣いに感謝してから、庭にある老いた松を指さして語る。

「あの老松は枝を垂れている。どうにか支えてあげたいのだが、わたしには支え続けることができない。朝も夕もこのことを憂う。できるならば、あの老松を救える支柱が拵えられるならば幸せだ」

迫田はこのように超俗無欲な人で、どことなく後年の西郷に通ずるところがある。そして迫田は壮絶な最期を遂げ、西郷へ大きな影響をあたえる。

迫田の最期

台風のため凶作になった年、迫田は農民のために年貢の減免を藩庁に願いでたが、聞き入れられず、憤慨して自裁。そのとき藩庁の壁に一首を遺していた。

 

「虫よ虫よ、五ふしの草の根を絶つな、絶たばおのれも、ともに枯れなん」

——藩庁の者どもよ、自分たちを養ってくれている農民を見殺しにするならば、お前たちも一緒に亡びるぞ——という歌である。


後年、西郷はこの歌をたびたび口ずさんでいたそうだ。それほど感銘を受けたという。のちに西郷は農民を救済するため藩庁に建白書を提出した。そしてこの建白書によって、幕末一の名君・島津斉彬に名が知られたといわれ、ついには大抜擢され、国事に奔走することになる。

奄美大島で農民を救う

 
西郷が民衆への愛を深くし、実際の行動にも反映させたのは奄美大島で生活しているときだった。

 島民に薄遇される

当初西郷は、奄美大島での生活に苦しんでいた。フィラリア感染症)によって、陰嚢が肥大化したことも一因ながら、それ以上に島民の態度がストレスをあたえていた。

 

島民が次々とやってきては、遠巻きにして眺めていたという。西郷はそんな島民の態度を「ハブ性」だ、と税所・大久保への書簡に書いている。

奄美大島の惨状

とはいえ、奄美大島に苛政がしかれていることを西郷は知っていたし、憤慨している。

 

強制的にほぼすべての平地にサトウキビを栽培させ、島民のための水田と畑は最小限しかゆるされず、しかも砂糖を私蔵すれば死罪になる。そのため貧窮し、自分の身を売る者が増え、人口の四割が家人(ヤンチュ)という奴隷だったところもあったという。

家人の生活はさらに酷かった。

「主人の屋敷内の小屋に家畜同然に押し込められ、食事も豚の飼料と同じ焼酎の絞り粕しか与えられず、昼夜関係なく働かされた」(北康利『西郷隆盛 命もいらず 名もいらず』)

西郷の激怒 

一年ほど島で生活すると、島民のほうでも西郷が罪人ではないとわか受けいれるようになる。そして西郷は島妻(アンゴ)を娶り、また近所の子どもたちに手習いを教えたり、一緒に相撲をとったり、島民との間に好ましい関係が築かれていった。

 

奄美大島で三年たつ頃には、西郷の監視役は知己の木場伝内が着任し、島での生活も充実しつつあった。事件が起きたのは、この頃だった。

 

砂糖の年貢の未納者が監禁され、拷問にかけられそうだということが西郷に伝えられる。日は暮れていたが、激しやすい西郷は朝まで待つことができず、すぐに馬を飛ばし代官のもとへとむかった。

 

代官は相良角兵衛(さがらかくべえ)。一首を遺して自害した迫田利斉の後任で、西郷の元上司である。相良が収賄をしていたことを知っていたので、西郷は彼を尊敬していなかった。

 

西郷は島民の解放をうったえるが相良は耳を貸さない。その態度に激怒し、

「ならば直接殿に建言書を書く」

と目に角を立てると、相良は顔を蒼くした。収賄していることが報告されるかもしれないと怯えたのである。
 
ここで木場伝内が間にはいって、相良を説得した。結果、農民は解放されることになった。西郷自ら牢の鍵を持って、監禁されていた人々を解放したという。

 

現代に語り継がれる魅力

相良角兵衛に見せた怒りには、民衆への慈愛の情の深さと不正に対する憎悪の激しさから生まれたのだろう。

このことからわかるように西郷は多感多情、多情多恨な人だった。そのために政治力では大久保に劣ったとはいえ、人物としての魅力は現代にも語り継がれ、敬愛されている。


もちろん多感多情であることが魅力なのではない。感激を受けやすく、しかも内に省みて身を修め、誠意を持って実践し、人々に感銘をあたえた。それが西郷隆盛の偉大さなのだと思う。

 

西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文 (岩波文庫)

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