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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

明治政府の第一人者大久保利通の勇気、責任感、熟慮断行

日本を統一して一丸とさせ、国を富ませて強くし、列強とならべても遜色ないまでに発展しえたのは大久保利通維新の理念によるものだと徳富蘇峰は書いている。

 
その大久保利通は政治家として以下の三点が際立っていたという。

  1. 勇気が充実していたこと
  2. 責任観念が旺盛だったこと
  3. 熟慮断行し、断行するときは徹底的に駄目を押し、用意周到だったこと

 

 

近世日本国民史 明治三傑 西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允 (講談社学術文庫)

徳富蘇峰の『近世日本国民史』や『大久保甲東先生』、そして大久保と関わった人たちの証言のなかから「勇気、責任感、熟慮断行」という特徴についてまとめてみたい。

 渾身にみなぎっていた勇気

政治家の資格で、なにが第一かといえば、それは勇気だ。なにが第二かといえば、それは勇気だ。なにが第三かといえば、それは勇気だ。いかなる政治家でも、いやしくも勇気の欠乏したる政治家は、扇子に要がないようなものだ。これは東西古今にわたりて間違いない所だ。しかして我が大久保公の勇気に至りては、実に一世に傑出したるのみでなく、百代に卓越したというても、大なる過言ではあるまい。――徳富蘇峰『大久保甲東先生』

佐賀の乱で見せた沈勇

大久保が激戦地に遭遇したのは「佐賀の乱」のときがはじめてだったにもかかわらず、弾雨をおそれることなく平然と歩き、司令官(野津鎮雄)のもとへむかったと米田虎雄は語っている。

司令官と話しているときも弾丸が飛び交っていたが、建物のかげに隠れたりせず、迫ってくる砲丸をまばたきせずに見つめていたという。

大久保さんは実に沈勇な人であった。ああいう真似はよほどの豪傑でないとできぬ、平生は落ち着いた滅多に物に動かぬ人であったが、スワという際には人に先んじて弾丸の中を潜って出るという、あんな大胆さは珍しい。私どもも物騒な中は随分と潜ったが、あの真似はちょっとできにくいことだと感服している――米田虎雄氏談『大久保利通 (講談社学術文庫)

政治家としての勇気

戦地で勇気を発揮することは匹夫においても不可能なことではない。「佐賀の乱」では平生と異ならない挙措をしめしたにすぎず、大久保は平生からして勇気が漲っていた。

誠忠組の頃、同志が脱藩を企てたときには、「脱藩するならば、俺を斬ってからいけ」と言いつけ、ややもすれば暴徒となりかねない彼らを一命を投げ捨てる覚悟で抑えつけていた。

 

明治六年の政変においても、西郷隆盛という全国の衆望を一身に集めていた英雄であり、ともに維新を成し遂げた畏友と対峙し、

この難に斃れて以て無量の天恩に報答奉らんと一決いたし候。

と覚悟を書にしたため、征韓論派(実際には遣韓論)を打倒している。

 

その他、大久保が勢力ある軍人と対峙して全く懼れないどころか、反対に彼らを縮み上がらせ、武人に権力を掌握させず、文治主義で貫き通していた。

 

公はいかなる場合でも失望せず、落胆せず、阻喪せず、挫折せず。険に処しても、夷に処しても、平然として、その歩調を狂わせなかった。しかして公の勇気は、その周辺の勇気の発電所ともいうべきものとなった。すなわちただ公一人(いちにん)のために、その周辺の者どもは、いずれも安心した。一身を以て、天下の安危を繋ぐという言葉はあるが、それを実際に見たのは、大久保公が明治政府に立ったときであった。――徳富蘇峰『大久保甲東先生』

責任感

維新前後に功臣は多く、無論大久保一人功績があったわけではないが、しかしあの難局に当たって、一切の責任を自分で引き受けて、難(かた)きは自ら任じ、易(やす)きは人にさせるというあの態度はほかの人の真似のできぬところである――林薫氏談『大久保利通 (講談社学術文庫)

 

こうした責任感について、伊藤博文もおなじ内容の証言をしている。

(大久保)公はなかなか思慮もあり、決断もあり、軽忽に事をしなかった。その自重の力は殊にすぐれたもので、しかも難事が起これば、率先して自ら事に当たる人であった。伊藤博文直話 

台湾事件が起こり、清と談判するため北京にむかったとき、
「こういう大事のときに当たって、公はいつも危険を避けず、自ら奮ってその渦中に投ぜられた」とも伊藤は述懐している。

この北京談判に同行した小牧昌業氏はつぎのように語る。

北京談判について感ずるのは、その談判振りの巧かったことよりも、公の担任力の強いことである。この大事件に自ら振るって出かけられたのは、もとより主上の御見込みにもよることであるが、公が大事に自ら任ずる力の大きいのに依るものと言わねばならぬ。談判振りは条理をつきつめてまっすぐにいったもので、激昂もしなければ凹みもみせぬ。これには支那人も手のつけようがなくてよほど困ったらしい。――小牧昌業氏『大久保利通 (講談社学術文庫)


当時の清の対応はノラクラでかわして時間をかけていた。列強にたいする旧幕府のように。しかし大久保は”ピシリピシリと急所を衝き、なおかつ条理がキチンと立っていため”清が逃げ切れなかったという。

熟慮断行

 

高橋新吉氏が、大久保から聞かされた話でもっとも感銘深いものとして次のことを述べている。

孔子は、過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し、と言われたが私は、
 過ぎたるは及ばざるに如(し)かずと言いたい。これは徳川東照公(家康)も言われたことであるが、何分にも天下に一大変革のあった跡というものは、これを整理し守成して行くのはむつかしいものだ、こういう場合にはしなければならぬことはたくさんあるが、しかしやり過ぎるのはよろしくない。殊に我国の目下の現状はことごとに新しくしなければならぬことばかりだから、余計に私にはそう思われる、やり過ぎるのは、やり足らぬよりは悪い、やってしまった後はもう取り返しがつかぬけれども、未だやり足らぬ内は熟慮してやるべき余裕がある、だから、過ぎたるは猶及ばざるが如しではなくて、過ぎたるは及ばざるに如かずである、家康公がこのことを言われたのが今全く思い当たる。――高橋新吉氏談『大久保利通 (講談社学術文庫)


 
大久保は、欧州視察のときにビスマルクモルトケと会い、大いに感銘を受けている。そしてそのモルトケの信条が「熟慮断行」だった。
大久保にせよ、モルトケにせよ、熟慮していたが、決心したときには批判を省みずに実行したという。

 

明治時代の発展は、大久保ひとりの力によるものではないが、リーダーとして大久保が率いていなければ進歩が遅れていただろう。暗殺されなければさらに発展していたかもしれない。西南戦争が終結したあと伊藤博文大隈重信を呼び、

今までは吾が輩はいろいろの関係に掣肘されて、思うようなことができなかった。君らもさぞ頑迷な因循な政治家だと思ったろうが、これからは大いにやる。おれは元来進歩主義なのじゃ。大いに君らと一緒にやろう。一つ積極的にやろうじゃないか――大隈重信談『大久保利通 (講談社学術文庫)

と語っていたが、その八ヶ月後に世を去ってしまった。残念なことである。