大久保利通の少年時代
明治維新政府でもっとも威厳があった大久保利通だが、少年時代はイタズラ好きだったという。『大久保利通』『大久保利通伝』を要約しながら紹介したいと思う。
入来でのイタズラ
入来(いりく)の湯治場には、冷水の滝と熱湯の滝の両方があり、それが混和して適温を保っていた。それを知った大久保は、熱湯の滝をせきとめて湯治に来ていた客に冷水を浴びせ、反対に熱湯だけを浴びせたりして客を驚かせ楽しんでいた。
さらにイタズラは激しくなり、湯治場に砂礫を投げて、番人が怒鳴るとすぐに森の中に逃げて行って、見つけられることはなかったという。
祟りをおそれずに投石する
桜島でもイタズラをしている。
噴火口へ石を落とすと、山霊が祟るとおそれられていたが、大久保は税所篤(さいしょ あつし)、彦作を連れて桜島の噴火口へ行き、面白がって石を投げこんでいる。彦作はそれをしきりに止めようとした。が、止ようとすればするほど面白がって投げた。
その彦作が大久保の家宅に来たとき、大久保本人がご馳走を給仕したという。豚の汁(豚汁だろうか?)だったが、ここでも大久保はイタズラをしている。彦作がもう入らぬ、と断るのに、大久保は無理におかわりさせては食べさせたとか。結局彦作は十一杯も食べるはめになり、困憊した姿をみて大久保は喜んだという。
イタズラを止めて長者の風を備える
このようにイタズラ好きな大久保少年だったが、
「少し年頃になるとイタズラを止めるとともに、篤実な考えの深い人になって、挙動も沈着になった」
という。
そして親類に病人が出れば熱心に看護した。大久保は「おれは按摩(あんま)が上手だ」と言っていたそうだが、実際に大久保が癪持ちの母をさすればたちどころに癒(なお)ったそうだ。
叔母(甲東逸話では「お秋」:Wikiによれば 「阿幾」)が悪性の熱病に罹ったとき、臭気が強烈で感染するおそれがあったので、親類ですら看病を嫌がっていた。そのとき率先して看病していたのが大久保だった。
大久保は15、6日ものあいだ昼夜看護に努め、ついには恢復させたという。
そして大久保は妹おもいでもあった。「これからの世の中は、女子でも字を知らなければいけぬから」と、手を取って字を教え、親切に教えたとのこと。
曾我兄弟の討ち入りの夜(五月二十八日)に、使い古した傘を川原で焼けば兄弟仲がわるくならないという言い習わしがあり、信心深い大久保は子どものころ常にこの行事に参加していたそうだ。
このことからも兄弟思いだと知ることができる。
「(西郷と大久保は)実に兄弟以上であった」という男爵米田虎雄氏の談話があるけれど、西郷隆盛にたいする想いも同様だったのだろう。