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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

戦国大名武田家の礎を築いた武田信虎

 武田信虎は甲斐を統一した猛将として知られる。

 家督争いを武力で収め、守護職に逆らっていた国人(こくじん)衆を撃破する武功もあった。しかし最大の功績は本拠を移したことだろう。

躑躅ヶ崎館

 居館を石和(いさわ)から甲府に移す。そして躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を造り、戦国大名武田氏の基盤を築いたのである。こうした本拠の開発にも信虎の哲学が見出せる。

 まず国人衆の領袖を城下に住ませている。国人勢力から領袖を切り離し、近くで監視することで反乱を起こさせないようにしていた。
 
 その国人衆の領袖とともに家臣を館ちかくに集住させ、さらに城下町(武田城下町)に寺社商工業の施設を招致している。この町の構造そのものが防禦施設として役割を果たすように整備されたのである。かわりに躑躅ヶ崎館の防禦施設は土塁と堀のみで簡素なものだった(詰城はあったが)。

 人は城、人は石垣、人は堀――という和歌を信玄が作ったとされるが、その哲学は信虎から受けついだともいえる。

人材登用

 本拠を移したのち、隣国から人材を集めている。原虎胤横田高松などがその際に仕官している。彼等は武田二十四神将にも数えられる。

 

 国人衆を牽制できる配下を揃えなければいかなかったことと、進取の気性が人材を求める理由となったようだ。改革者としての信虎は、信玄以上の手腕があったのかもしれない。

クーデター

 改革者としていかに優れていようと為政者として暴戻であれば人心は離れる。暴君として有名な桀王、紂王、隋の煬帝、ローマのネロにしても才気があり、しかも暴虐なために国を滅ぼす原因をつくった。

 

 信虎も多くの優秀な人材を得ながら、ささいなことで誅し、あるいは追放し、戦で領民を疲弊させ、一説には、妊婦の腹を割いたとある。

 

 そうした因果の報いとして、人心が離れ、追放の憂き目にあう。今川領に出向いているときに、国境を封鎖されてしまい、その後今川家の客分となる。

 

 明応3年1月6日(1494年2月11日)~天正2年3月5日(1574年3月27日)