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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

北条早雲の治政と家訓

北条早雲というと、誰もただ炯眼な戦将とばかり思うけれども、あれはまた非凡な政治家だヨ」と勝海舟が言っているように早雲は政治力に優れていた。繁文縟礼の弊を一掃し、法を三章に約し(劉邦も戦乱のとき法を三章にしてた)、苛税免じて、民力を養ったと伝えられる。

徳川時代には、小田原付近から、関八州にかけてが、全国中で一番地租の安いところであったが、これは全く早雲の余沢だ――氷川清話 (講談社学術文庫)

 出自について

北条早雲は自ら北条姓を名乗った記録はないという。正式な名は伊勢宗瑞(そうずい)であり、出自が岡山ということもわかっているらしい。素浪人が旗揚げして大名になったという記憶違いをしていたが(勝海舟も赤手空拳と言っているが)、近年の研究により備中伊勢氏の当主伊勢盛定の次男「伊勢盛時」が早雲だということも判明している。(北条早雲と家臣団

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備中伊勢氏は、室町幕府の政所執事をつとめる京都伊勢氏の一族にして備中国荏原荘(えばらのしょう:岡山県井原市)の高越山城の城主であった。
それだけではなく早雲にはかなりの教養があったという。前掲の『北条早雲と家臣団 』によると、幼くして備中の法泉寺で禅僧の教育を受けて書を学び、その後京都の大徳寺などで厳しい禅の修行を積み、公家と交わって学問を好んだ。書状などを見ても、その字体と文章の淀みなさからも、相当の教養を身につけた人だとわかるという。『太平記』を熟読したともいわれており、また普段から質素・倹約に務めて有事の時の蓄えを疎かにしなかった経済家ともいわれている。

 
早雲の家訓がいくつか紹介されているのでここに引用します。

第一条 仏神を信仰すること。

 

第二条 朝は早くに起きること。遅く起きれば家臣までも油断して使われず、役に立たない。必ず主君にも見限られるものと深く慎むべきである。

 

第三条 夜は五ツ(午後八時)以前には就寝すること。夜盗は真夜中に忍び入るもの。夜中に寝込んで家財を盗まれ、滅亡する者もいる。宵にはいたずらに薪や灯火を燃やさずに採りおいて寅の刻(午前四時)に起きて行水と神に礼拝を済ませ、身繕いを済ませてからその日の用事を妻子や家来に申しつけておくこと。六ツ(午前六時)以前には出仕のため城にあがること。古くから子(ね)に寝て寅に起きろというが、これは人にもよる。すべて寅に起きるのは得するのである。

 

第四条 顔を洗う前に厠や厩・庭・門外を見回って掃除する所を家来に指示すること。顔を洗う水はムダにせず、家中であるからと声高い咳払いなどは見苦しいものである。

 

第五条 神仏を拝むことは、身の行いである。心を柔らかく持ち正直に拝むこと。上の者を慕い、下の者をあわれみ、有ることは有る、無いことは無いと正直に祈ることは仏の意向にも沿うであろう。たとえ祈らずとも、その心があればよい。

 

第十二条 少しの暇があれば本を読み、文字のあるものを懐にして人目を忍んで常に読んでいること。本を放せば文字を忘れ、書くことも同じである。

 

第十五条 歌道を嗜むべきこと。歌を学べば常の言葉にも慎みが出るものである。

 

第十七条 良い友とは学問のある友であり、悪い友は碁や将棋・笛・尺八などの上手い友である。碁や将棋・笛・尺八は知らなくても恥ではない。習っても悪いことではないが、ただいたずらに年月を送るよりはましな程度である。人の出来、不出来はみな人とのつき合いによる。三人行くところ、必ず師匠あり、よき友を選ぶこと。

 

第十八条 暇になって家に帰ったなら、厩から裏に回って周囲の壁や垣根の犬のくぐり穴を修理すること。下女などは軒の板を剥がして処理するようなことをする(手抜き工事のことか)ので、常に注意を怠らぬこと。

 

和辻哲郎は『埋もれた日本 』のなかでこの家訓を取り上げ、伝統的な日本の思想と変わらず正直を説いているが、しかもその正直を説く態度には、「前代に見られないような率直さ、おのれを赤裸々に投げ出し得る強さが見られると思う」として次のようにまとめている。

戦国時代のことであるから、陰謀、術策、ためにする宣伝などもさかんに行われていたことであろうが、しかし彼は、そういうやり方に弱者の卑劣さを認め、ありのままの態度に強者の高貴性を認めているのである。そうしてまたそれが結局において成功の近道であったであろう。

 

 

 

埋もれた日本 (新潮文庫 わ 2-1)

埋もれた日本 (新潮文庫 わ 2-1)