三島由紀夫と陽明学
『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦 』の巻末に書かれている。戦後の歴史学の世界において西郷隆盛は否定的な評価となったが、「時として強烈な感化力をはなった」ようで、その力に包まれていた気配のある三島由紀夫は、
西郷隆盛は五十歳で英雄として死に、神風連の指導者のひとりも同年で死んだのだから、「私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合うのだ」
と42歳のときに語ったそうです。
この発言の前年、三島由紀夫は熊本に行き神風連について取材していた。『豊穣の海』第二部奔馬のためである。
『豊穣の海』の中で、神風連や大塩平八郎について書かれていたことは記憶にある。しかし、西郷隆盛の名前があっただろうか。記憶にない。『西南戦争』を読むまで三島と西郷は自分のなかでは結びつかなかった。
三島は『産経新聞』(昭和四十三年四月二十三日付)に掲載された「銅像との対話」で、西郷に「日本人の中にひそむもっとも危険な要素と結びついた美しさ」を感じ取っている。――『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦 』
晩年の三島由紀夫が陽明学に傾倒していたことは有名。そして西郷隆盛も陽明学と禅によって鍛え上げられ、とくに大塩平八郎の『洗心洞箚記』を座右の書にしたらしい。頭山満の語るところでは、西郷が読んでいた『洗心洞箚記』は、ボロボロになるまで読まれ、また書き足しているところもあったとか。
安岡正篤氏との交流
三島由紀夫が、昭和の碩学とよばれる安岡正篤氏と交流があったのも陽明学への関心からだったという。陽明学者と呼ばれることを好まなかった安岡氏は、三島の知性は評価していてもその根源ともいうべき志気をいぶかしんでいたらしいことが『人物を修める 』に書いてあった。
陽明学というものが革命や反体制と安易に結びつけられることに苦言を呈していた記憶がある。(手元に本がないので曖昧ですが)
その安岡正篤氏は、春日潜庵を何度か著書のなかで取り上げている。そして西郷隆盛の『遺訓』でも、春日潜庵の元に自分の子弟らを学ばせに行かせたことが書かれている。春日潜庵は乱のなかで斃れた人物ではない。安岡正篤氏は、「彼において私は、真に陽明学を日本的に活読することが出来るように思う」と潜庵を評している。
三島由紀夫とバイロン
三島由紀夫を理解できているとはいえないが、自分の印象では三島由紀夫はバイロンと似ている気がする。ネットで「三島由紀夫 バイロン」と検索してみると、三島がバイロンを意識していたことがわかった。両者とも晩年にヒロイックな行動をする。そして美を追究してきた彼等が破滅に終焉を求め、劇的な人生を演じたような印象がぬぐえない。
三島は、陽明学を極端に解釈をすることで、過激な行動を正当化し、悲劇性を高める道具としたのではないか。