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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

執筆を続ける勇気をくれたことへの感謝として

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 あけましておめでとうございます。新年最初の記事では、このブログをはじめる前から、伝えたいと思っていた感謝の気持ちを綴らせてもらいます。ある女性への個人的な内容ですが、このブログをはじめるきっかけでもあったので、ここに載せることにします。

小説を書きながら放浪していた頃

 その女性とは、あるサイトで小説を書いていたとき交流するようになりました。拙作に好意あるレビューを添えてくれたことがきっかけで、メッセージで交流したり、互いの作品を読んだりしました。彼女の文章はテンポがよく、わかりやすい。とりわけ執筆しはじめてからの心境をつづったエッセイに(小説以上に)共感を覚えました。
 僕に欠けている部分が彼女の表現のなかにあり、それで引き込まれたのかもしれない。というのも僕の小説には多くの悪弊があった。豊富な語彙や独自の表現をもとめ、そのうえ知性ではなく感性にしたがって書かれたため、読みにくい文章でした。そして彼女のわかりやすさに対抗する手段として、その傾向を強めたかもしれません。

 そのころ僕は放浪していました。仕事や人間関係がイヤになり、けれど自分の力ではなにも変えられず、現実から逃避し旅へ出ていたわけです。かぎられた親しい人との連絡をのぞけば、彼女との交流により寂寥感がやわらぎ、また彼女の評価のおかげで小説家になる希望を保ちつづけられ、そうしておそらくは生きる支えとなっていたのでしょう。

挫折

 旅先は色あざやかな紅葉に染められ、古跡の雰囲気を一層感動的にしていた。幾世も存在する造形美と季節とともに去る自然美の時空間におけるコントラストが、僕の眼前でむすばれているようにも思えた。このような素晴らしい風景に恵まれながら、僕の心は悲しくとらえていた。どこへ行こうとも、遠く離れてしまったかつての恋人が脳裏にうかぶ……。
 おそらくはもう会えない存在であり、想い続けるのは愚かなのでしょう。けれども思慕の念を断ちきれない。無理にでも忘れようとした反動で存在感が増すように思われた。
 それならば感じるままに執筆しよう、と試みる。かつての恋人の残像が衝迫してくるのは、記憶を保持しておきたい欲求のためなのだろう。この気持ちをアウトプットして、創作の中に保存すれば、その欲求もおさまるのではないか、と。結局、その試みは失敗する。創作により、かつての痛みを味わうはめになり、創作そのものに嫌気がさしてしまったのです。はてには執筆そのものが苦痛になり、同時に書いていた紀行文や歴史小説も書けなくなりました。夢をうしない、死を生半可な気持ちで考えたりしました。もちろん、覚悟はなかったのですが。そういう暗澹たる気持で旅を続けることになりました。
 それでもあらゆる形象に「美」は宿り、各所に存在していた。そうしてときおり、この「美」を言葉で表したい、という願望を生じさせる。自分の言葉でとらえられるだろうか、と疑ったとき、自分の創作を応援してくれた人たちの存在が不安を打ち消してくれた。自分には、まだ感じる心がある。生まれる言葉がある。書いていける。生きていける――そして山口県に入り、高杉晋作の足跡をたどりながら、そのおりおりに生じた感激を書きためることにしたのです。

集大成を表現する

 書きためたものを見返すと、あらゆる影響によりテキストが組みたてらているのがわかりました。高杉晋作とは関係のないゲーテの言葉を引用したり、旅先で見聞したこと、傾倒した作品を模倣した文体、さらには知人の性格を参考に高杉晋作象を検討していたところもあります。また、なるべくわかりやすく書こうとしているのは、ネットで交流した女性の影響とおもえました。
 それで僕はこのように考えたのです。執筆するということは、主題に全身全霊をもって挑み、現段階の集大成を表現することなのではないか。そこには様々な影響が見出せるだろうし、とくに感激をうけたものが色濃く埋め込まれているだろう、と。

 かつての恋人を忘れるべきだと思ったが、自分のテキスト(そして人生)に消しきれない影響を残している。小説を書いていたときの文章、執筆しはじめる動機などと濃密な関係をなしていた。つまり、かつての恋人への愛情があったからこそ、ネットで交流した女性から評価をしてもらえた作品が生まれたのではないか。失った存在のために嘆くべきではない。残された影響を、最良のかたちで表現するべきではないか。
 執筆を続け、推敲を重ね、文章はより優れたものになる。おそらく、僕のなかにある、ありとあらゆる影響(または知識)が、適切に表現され価値を発揮しうる状態までもっていけたからなのでしょう。推敲して無駄を省いたり、不足している部分を補強することは、文だけではなく思念の形成も変える気がする。感情よりも悟性に照合させて対象を判断するようなり、愛憎を越えた価値観で過去を省察し、現在を有意義に観察することができ、将来に有益な影響を残せる、というふうに。

 小説を執筆するには、一つの主題に感性を収斂させながら、物語を展開させ集中力を持続し、ささやかな点にも注意をむける能力を要します。しかし自分にはそれが望めないことがじゅうぶんにわかったので、ブログをはじめようと思いました。逸話ならば小説ほど持続力を必要としませんし、感激を受けた偉人を執筆することで、偉人の認識がすこしでも広まり、そのうえでときおり見かける短絡的な批判がなくなるならば嬉しいことだと思います。もちろん、自分自身が歴史を究明する必要がある。もっと見識を高めなければいけない。そのためにもブログは適当だと思えた。
 このような目標を抱くようになり、最終的に公開に踏み切れたのは作品を評価してくれた女性の存在が大きいと思います。

 

 想いにまかせて書いたみましたが、感謝の念をうまく表現できていないですね。論理の整合性という点でも欠陥のある文章だろうし。いずれまた書き直したいと思います。今年もよろしくお願いします。