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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

資治通鑑に書かれたリーダー像(前漢~三国志編)

司馬光が編纂した資治通鑑孔子の『春秋』の形式(編年体*1)を用いて、『春秋』以後の政治の批判と考証をしています。
「治世に利益があって歴代為政者の鑑(かがみ)とするに足る通史」広辞苑)との意味で、このタイトルは神宗*2が下賜されたそうです。
 今回は『資治通鑑選(中国古典文学大系 (14))』のなかからリーダー(主君や将軍など)に関する論賛を紹介します。

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 劉邦(高祖)

「はじめ高祖は学問を修めなかったが、生まれつき聡明で、人によく相談し、意見をよく聴き門番や一兵卒までも旧知のように親しく遇した」と評される劉邦漢帝国を築き上げた彼についての逸話はたくさんありますが、そのなかでも遠大といわれた統治の構想の一端が見受けられるのが次の逸話です。

 漢記 高帝五年(前 202年) 

 かつて丁公は項羽(こうう)の将となり、高祖を追いつめた。
高祖が、
「貴公と私の両雄がどうして苦しめ合わねばならないのか」と言うと、丁公は兵を引いてひき返したことがあった。
 項王(項羽)が滅亡したのち、丁公が拝謁すると、帝(高祖・劉邦)は彼を軍中にさらし、
「丁公は項王の臣として不忠であり、項王に天下を失わせた男である」と言い、斬殺した。
そして、
「後世の人臣たる者に丁公の真似をする者のないようにさせたい」と言った。
臣光(司馬光)曰く――
 高祖は豊沛の地から起ち上がって以来、広く豪傑の士を集め、逃亡者や謀反人を受け入れることも多かった。皇帝の位についたのち、丁公だけが不忠のかどで処刑を受けたのはなぜであろうか。
 そもそも進取と守成とは、その形勢を異にする。群雄が相争っている際には人びとには定まった主人という者はなく、やって来る者を皆受け入れるのはもとより正しいことである。しかし、天子の貴位に立ってからは、天下の人びとはすべて臣でない者はなく、かりそめにも礼と義を明かにして、これを示し、臣たる者に二心を抱いて大利を得ようとすることのないようにさせなければ、国家をどうして長く安定させることができようか。このために大義をもって処断し、天下の人びとにすべて臣となって不忠なる者は容赦することなく、私欲のために恩を売って結託しようとする者は、命の恩人であっても義のためには助けないことをはっきりと知らせたのである。一人を殺して、千万の人が恐れたことは、高祖の配慮がいかに深遠であったことか。(略)

 

光武帝(劉秀)

漢から纂立(さんりつ)した王莽によって「新」が建てられるのですが、現実性を欠いた政治のために混乱をまねき、ふたたび劉氏によって漢室が再興されます。「新」以前の漢と区別するため、後漢と呼ばれ、「後漢王朝」の基を開いたのが名君・光武帝(こうぶてい)です。

赤眉の討伐における光武帝を、司馬光王者の用兵と讃えています。

 帝は将軍馮異《ふうい》を河南まで送り、勅して言う。

「三輔(さんぽ)の地は、王莽・更始の乱にあい、さらに赤眉、延岑(えんしん)の暴虐を受け、民はみな泥にまみれ、火中に落ちる苦しみをなめながら、すがり訴えるすべもない。将軍は今や無道の者どもを討たんとするのであるが、寨(とりで)の降伏したものについては、主だった頭目は都に送りとどけ、小民たちは解散して農業に復帰させ、寨を破壊してふたたび結集することのないようにせよ。征伐とは必ずしも土地を攻略し、城市を破壊することではなく、要はその土地を平定して民を生業に安ぜしめるにある。諸将は勇ましく戦わぬわけではないが、とかく人を捕らえ物を取ることを好むものである。貴公は平素から部下をよく統率しておるが、よくよく自ら謹んで、郡県が苦しむことをせぬよう心せよ」

 異は、拝礼して命を受け、兵を率いて西に向かった。至る所で威信を示したので、盗賊どもは多く投降した。

臣光曰く――

 昔、周の人びとは武王の徳を称えて、「文王の徳を敷きのべて深く尋ね求め、わが行きて紂を討つは天下の定まらんことを求むるなり」とうたったが、その意味は、王者の軍の志とするところは天子の威光と恩恵を広めて人民を安らかにすることにある、というのである。光武帝が関中を平定するやり方を見ると、まさしくこの道を用いている。なんと立派なことではないか。

光武帝への直言を憚らなかったために死ぬことになった韓歆(かんきん)に触れ、つぎのとおり記述。

臣光曰く――

 昔、殷の高宗は傅説に命じて、「もし薬が目まいするほどはげしいものでなかったならば、その病気はなおるまい」と言った。そもそも飾ることなくズバリと表す言葉というものは、人臣の利益になるものでなく、国家の幸福となるものにほかならない。それゆえに君主は日夜、そういう言葉を求め、ひたすらそれを聞くことができないのをおそれるのである。惜しいかな。光武帝の世でありながら、韓歆は直諫したために死んだ。これは帝の仁愛聡明のきずになるのではなかろうか。

劉備曹操

三国志の英雄ふたりについて印象にのこっているのは、次のような対照的な特徴。

 献帝 建安十三年(208) 劉備の信義
 劉玄徳は軍がくつがえりそうな剣難にあっても、信義はいよいよ明かに、勢いが差し迫り、事態が悪化しても言葉は道を失わず、景升(劉表)の遺言を守っては、その厚情に三軍をして感動せしめ、義に赴く士を大切にしては、共に同じく敗れることに甘んじた。終に大業を成し遂げたのは、またもっともなことではないか。

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 魏紀 黄初三年(221)曹操の驕り
 昔、斉の桓公は一たびその功を誇ったために、叛く者が九ヵ国も出てしまった。曹操は少しばかり驕り昂ぶったため、天下が三つにわかれてしまった。両者とも何年も努力した結果を、あっという間に駄目にしてしまった。

 

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もちろん、このふたりは他にも美点もあれば欠点もありました。とはいえ、その特徴については、上記の評がよく物語っているでしょう。曹操の孫・明帝には、次の論評を引いている。

明帝(曹叡

 孫盛論じて曰く――
 魏の明帝は天性まことにすぐれ、立てば髪は地まで垂れ下がり、口は重くことばは少なく、しかも沈着冷静で決断力に富んでいた。(中略)
 善言・直言をよく受け入れ、また述べさせて、帝の怒りを恐れず口を極めて忠告批判したとしても、それによって刑罰を受けるといったことはなかった。
 帝の人君としての器量は、このようにまことに偉大であった。けれども、徳を磨き、それによって人びとを善導するという点については思い及ばず、宗族繁栄の基礎を固めることなく、政治の大権を一方のみに委ねて、国家を危険から守る道を失うに至らせたのは、まことに悲しいことであった。

諸葛孔明

劉備を補佐した諸葛孔明については次のような話が採録されています。

 

諸葛亮が丞相であったとき、「あなたは赦を惜しんで容易にはなさろうとしない」と言った者がいた。亮は答えて言った。
「世を治めるにはすぐれた徳で治めるのであって、小さな恩恵で治めるのではない(略)」

司馬懿

三国志演義諸葛孔明のライバルとして描かれる司馬懿は、次の評論があります。

 于宝曰く――
 昔、高祖宣皇帝(司馬懿)はすぐれた才能、すぐれた力量をもとに時代の動きに応じて立った。生まれつき考えが深く、緻密であたかも城塞官府のごとき感があったが、それでいて寛容でよく人の意見を聞き、策略にたけて物を自由に扱う一方、人をよく見分けて人材を抜擢した。そこで人びとはその異色の才能に服して、後に晋の天下を築く大業の基礎がその時はじめて固まったのであった。

長くなりましたので続きは以下のリンクで。

 

 

*1:年月を追って記述する方法

*2:司馬光資治通鑑を完成させた当時の天子。ただ、政治的にあわなかったという

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