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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

西郷隆盛と中岡慎太郎の会見

 前々回の記事で書いた『高杉と西郷』の会見に関連して、今回は中岡慎太郎西郷隆盛の会談について。

 

 

 根拠がとぼしいとされる『禁門の変』のときと、記録が残されている小倉での会見について『陸援隊始末記』を参考に書いていきます。

陸援隊始末記―中岡慎太郎 (中公文庫)

禁門の変

 京都進撃に決した7月18日、中岡慎太郎は父兄にあてて決別書をしたためる。死を覚悟していたわけだ。しかし、来島又兵衛の遊撃隊にぞくしていた中岡は、嵯我から中立売門にすすんだとき、足を負傷したため隊から離脱した。うまく敵のなかにまぎれこみ、そのまま旧知の人物の家に潜伏する。
「戦場見物にでて、思わぬ傷をうけた。しばらく休ませていただきたい」と、説明していたそうだ。

 ここで傷の手当てをうけながら、戦後の情況を観察していた。長州はやぶれる。久坂玄瑞は寺島忠三郎と刺しちがえ、入江九一も討死。真木和泉も自害。さらに、中岡慎太郎と同じ土佐脱藩の志士も多数戦死。京都の支配権は、会津と薩摩によって奪われ、佐幕派に掌握される。

西郷の真意を問う

 長州が敗れたことは、尊王攘夷の旗印が破れたことを意味する。そこで中岡は、西郷を訪ね、問いただしたという。この会見で、中岡慎太郎は形勢逆転の道筋を見つけたとされる。

 西郷は、禁闕(きんけつ)を守衛するために会津と手を組んでいただけで、長州を撃滅させることが目的でなかった、と。ここに、薩長を同盟させる秘策をみつけたらしい。

 以上のことが『維新土佐勤王史』にあるけれど、『陸援隊始末記』では根拠があるものではないとしている。もし、これが事実ならば、”怪我の功名”といえる。
 

小倉での会見

 長州征伐のとき、降伏条件を寛大にすませようとした西郷は、五卿の九州転座を実行するために、筑前に来ていた。このとき中岡は、真意をただしたい、と西郷との面会を希望した。
 中岡は「寺石貫夫」と変名*1して、豊前の小倉にわたる。西郷も「大島三右衛門」と変名していた。

 

禁門の変のときは嘆願を受け入れなかったにもかかわらず、なぜ今になって周旋するのか」

と中岡が問えば、西郷は、
「薩摩を暴賊などと訴え出て、皇国の一大事についても考えていないためだ」と、返答している。


 場合によっては西郷を刺殺する覚悟だったが、説伏されたらしい。

「談判の席では、返辞の挨拶もなく帰ったが、内心は感服していたかと想われる」(陸援隊始末記)。
 このあと西郷は三途の川と呼号されていた関門海峡をわたり、高杉晋作と会見したという。が、伊藤博文が否定しているので、あくまで伝説とされている。
 

*1:ここに脚注を書きます長州は朝敵となっているため、長州に身を寄せている中岡は変名する必要があった。