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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

西郷と高杉は面会したか?

 西郷と高杉は、幕末の二大英雄だ。このふたりは会見した伝説もあり、会見していないとする説も根強い。高杉が福岡に潜伏していたときと長州征伐のときに面会したといわれる。

 高杉が福岡に潜伏していたときには、西郷はちがう場所にいたので訛伝《かでん》とされる。なので長州征伐のときの伝説について詳しく見てみたい。

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第一次長州征伐の経緯

 長州は下関で外国船を砲撃し、攘夷を決行し、関門海峡を封鎖していた。その翌年イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国連合が下関を砲撃する。下関海峡の通航の自由を得ることと、攘夷にたいし報復する目的があった。圧倒的な軍事力の前に、長州は敗れる。幕府の長州征伐はその直後に行われた。

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 列強に敗戦したばかりの長州を征討することに、大久保利通は否定的だった。その大久保に対し、西郷は手紙で、この機会を逃さず征討しなければいけないとして、
「降伏したら東北辺にわずかの領地を与え国替えさせるべきだ」と主張。

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 西郷は長州征伐で「軍参謀」をつとめるのだが、一方で「降伏交渉にきた(長州の)代表者たとひそかに会って、官軍の問責に対する適切な返答を教えていたという」(上田滋『西郷隆盛の世界 』)

 長州では恭順派が主導権を握っていたため、戦わずして恭順を示す。また西郷のアドバイスもあって交渉はスムーズに運ぶ。

 手紙でのべた主張とこのときの行動は矛盾している。これは西郷の生涯にしばしば見られる傾向だ。厳しい姿勢で臨みながら、寛大な処置になるのは、彼の多情多感な性質がそうさせるのだろう。

西郷の大胆さ

 和平条件のひとつとして、長州に潜伏している五卿を他国に転座させなければいけず、この一件に関しては難航していた。
 転座させることに反対していたのは「奇兵隊」であり、その中心人物が高杉晋作だった。西郷は、高杉を説得するために、下関に乗り込むことを決める。

 このころの長州と薩摩は政敵であり、薩摩の策謀で京における勢力を失ったこともあり、憎悪は根深かった。
 下関海峡をとおった薩摩の船を撃沈させたり、薩摩の綿を積んだ貿易船が上関に滞留していることを知った長州人が、その綿を焼いて、船頭の首を斬り落として、大坂の御堂筋まで運んで晒したということもあったらしい。
 下関海峡のことを薩摩人に対する「三途の川」だと呼号したとも伝えられる。
 
 そうした状況にもかかわらず薩摩藩士西郷は吉井友実・税所篤ら数人のみを従え、下関に乗り込んでいった。
「長州が自分を殺せば、かえって彼らの立場は窮迫し、問題解決がたやすくなる」と、まわりに言っていたという。

高杉の大観

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 三途の川を渡ってきた西郷を、高杉は迎え入れて握手した。西郷に害をおよぼして自滅することはなかったのだ。薩長同盟がむすばれるのは2年後であるが、長州藩士の感情が、同盟をはばんでいた節があった。それほど拒否反応が強かったにもかかわらず、このとき高杉晋作は無事に西郷を送りかえしている。感情を超越し、時局を大観していたのだろう。
 もしこの伝説が事実だとすれば、西郷の大胆さと高杉の大観が縫い合わされた美談といえる。