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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

勝海舟についての雑文

柄に手をかけた刺客に、勝海舟は従容として言い放つ。

「斬るなら見事に斬れ。勝は大人しくしていてやる」

その一声は、刺客の度肝を抜き、刀を抜かせなかった。

この一事を振り返った勝海舟は、後年吉本襄に、「人間は胆力の修養がどうしても肝腎だヨ」と語っている。(氷川清話 

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批判も多ければ、美談も多い

 勝は一方では傑物と目され、一方では俗物として見なされる。毀誉褒貶のさなかにあり実像が把握しがたい人物。

おれは常に一身を死生一髪という際(きわ)に置いていた。おれの真意が官軍にわからなくって、官兵がおれの家を取り囲んだこともあった。また、幕臣中でも剽悍なものは、ややもすると、おれを徳川氏を売る者と見倣《みな》して、おれを殺そうとしたものも一人や二人ではななかった。『氷川清話 

と、あるけれど、勝海舟の真意は生きている間に理解されることはなかったのではないか。

 

福沢諭吉は『痩我慢の説』で、「東洋和漢の旧筆法に従えば、氏のごときは到底終(おわり)を全うすべき人にあらず」ということを書いている。

徳川慶喜にしても、勝を信用していなかった。以下のような話がある。

明治二十五年に海舟の長男小鹿(ころく)が死んだとき、勝はその爵位を徳川家に奉還したいといって、慶喜の末っ子の精(くわし)を養嗣子に迎えたいと願いでた。
 このときはじめて、慶喜は、
「勝はわしに怨みを持っているのかと思っていたが、そこまで親切にしてくれるか」と涙を流したといわれる。――徳川宗英『徳川家に伝わる徳川四百年の内緒話 (文春文庫)

しかしこのときも、旧幕臣には、「あれは勝一流の駆け引きだ」と誹謗する者もいたらしい。

 

また同書には、維新後の美談のひとつとして日光東照宮をまもったことを紹介している。
ある西洋人が、日光東照宮を三十五万で買いたい、と申し出たとき、大久保利通三条実美は売却しようと考えた。そして勝に打診する。

そのとき勝は忠告する、

「人の古廟をつぶして、それで活計を立てるというのはみっともない話ですよ」と。

江戸城を渡し、徳川氏をまもる

幕末の頃には、坂本龍馬勝海舟を斬ろうとした。が、説き伏せられ、勝の門人になる。

西郷隆盛も「ことによっては、やりこめてやろう」という気持ちで会ったが、惚れた、と初対面の印象を大久保利通への手紙で告白している。

 

幕臣戸川残花(ざんか)はつぎのような文章を発表している。

『涙を呑んで事に当たったのは勝海舟だった。泣いて節を守るの士は栗本鋤雲*1だったといい、徳川氏三百年の覇業に、円満な結びを附けるために、勝伯は心肝を砕いたのだったが、なおそれに栗本翁のような老実な人物があって、初めてそのことが実現したといっている。――森銑三新編 明治人物夜話 (岩波文庫)』――


誰しもが勝海舟の考えに迎合していたら、それはそれで寂しいのも事実だ。
 

こんな風に書いている自分にも、勝海舟が傑物か俗物かはわからない。精確な実像はこれから先もわからないだろう。その混沌としている印象を、乱雑な記事にしただけにすぎない。

ただ『氷川清話』はおもしろい、ということは断言できる。誇張されていることや、勝海舟の記憶違いがあるとしても。

*1:栗本鋤雲は幕府瓦解の報せに接し、フランスから帰国した。勝海舟と肌合いがあわなかった人物の一人。維新後は新聞記者になっている。