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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

外国公使襲撃――高杉晋作1862年(文久2)

 上海で晋作は、「拙者頗(すこぶ)る狂」と相手につげていた。『論語』でいう「狂者(進んで行う者)」のことである。帰国した晋作は「狂」によって、固陋因襲な状況を打破しようとした。

論語 (岩波文庫 青202-1)

帰国してから

上海から帰国した晋作は、世子公(藩主の世継ぎ)の小姓に命じられる。このとき世子公は『公武合体論』を支持していた。つまり、衰えつつある幕府と、尊攘派が担ぐ朝廷を融和させることで、混乱した政局をまとめる主張だが、実際には幕府の権力を強くする策だった。


そんな手ぬるい方法では、中国の二の舞になると眉をひそめていた晋作は、世子公に意見し、いとまをもらって江戸藩邸を去った。
常陸の笠間で義兵をあげようとしたのだが、これはうまくいかず、江戸へ戻る。


公使襲撃を企てる

江戸に戻ると、井上聞多、長嶺内藏太、大和彌八郎の3人につぎのような提案をする。
 
「今度の11月13日に、横浜の外国公使が金沢に行くという。これは好機会だ。公使を襲撃すれば必ず国際問題を引き起こす。そうなれば因循な幕府であろうが、気力を奮って対応しなければならない。いかに無神経で惰弱な当局者だろうと、目を醒まさずにはいられまい。これこそ霹靂一声の快挙である。どうだ、諸君もやらないか」

3人は即同意した。そのあと、久坂玄瑞や赤禰武人、品川彌次郎などが加わり11名で襲撃することを決めた。


幕府に囲まれる

決行前日、神奈川にある下田屋という旅館に泊まる。夜が明け、金沢にむかおうとしたが、幕府の役人らしき人びとが旅館を遠巻きに囲んでいた。
バレてしまったか、と思ったとき、長州藩士・山縣半蔵、寺内外記が下田屋に来て説明する。「世子公は、君たちが行おうとしていることを知っている。抑止させよと命じられた」と。

さらに将軍に面会する予定だった公卿の使者がきて、「将軍に攘夷させる時機が迫っている。この一挙でことを破ってはいけない」ということを述べたという。このとき、井上は、
「高杉聴くな、聴くな」と喚いていたが、晋作は鄭重に対応して、公使襲撃を中止にした。

問題は、幕府の武士にかこまれた旅館を無事でられるかだった。
「取りかこむならば、斬ってしまえ」と決める。抜刀した11人は、声をあげ、旅館を飛び出しす。あっけにとらた幕府の武士は、立ち尽くすことしかできなかった。

冷めた狂気

伊藤博文によれば、「高杉は実行不可能なのをすでに知っていた」という。幕府の対応をたしかめる芝居だったのだろうか。以後幕府をからかう態度はエスカレートしていく。無謀におもえる「狂」も、冷静な計算のうえに成り立っていたのだろう。