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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

尊大すぎた佐久間象山

佐久間象山は傑出した才能を持っていた。それにもかかわらず卓越した能力を政治に及ぼすことなく、非業の死を遂げた。なぜだろうか。

 

省〔ケン〕録 (岩波文庫 青 14-1)

省〔ケン〕録 (岩波文庫 青 14-1)

 

 

佐藤一斎陽明学をうけつけない

象山は幼少のときから、父について儒学を学び、とくに「易学」をならう。16歳で、松代藩の家老・鎌原桐山(とうざん)のもとで朱子学、数学を修め、23歳の暮れに江戸へ出て、佐藤一斎の門に入る。

佐藤一斎は当時の大儒であるが陽明学を信奉していた。幕府が朱子学を正統としているので、表だって陽明学の教義は説かないのだが、陽明学に影響されていると感取した象山は、

「文章や詩は学ぶけれど、学問の教授は受けない」と放言してといわれる。

言志四録(1) 言志録 (講談社学術文庫)

勝海舟による評価

勝海舟の談話をまとめた『氷川清話』でも、

学問も博し、見識も多少持って居たよ。しかし、どうも法螺吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当たらしたらどうだろうか……。何とも保証はできないノー。

(中略)

 いかにもおれは天下の師だというように、厳然と構えこんで、元来覇気の強い男だから、漢学者が来ると洋学をもって威しつけ、洋学者が来ると漢学をもって威しつけ、ちょっと書生が尋ねて来ても、ぢきに叱り飛ばすという風で、どうも始末にいけなかったよ。

と、評価は厳しい。妹婿であるのに、だ。(年齢は象山が12歳上だが)
ちなみに、勝海舟の”海舟”という号は、象山から貰っている。

 

氷川清話 (講談社学術文庫)

鉄舟に論破される

幕末の三舟―海舟・鉄舟・泥舟の生きかた 』に山岡鉄舟と象山のやりとりが書かれている。もっとも、鉄舟は、「某人傑」と書いていて、象山だと明言していないが、経緯や文脈から象山だとされるという。(『高士山岡鉄舟』によれば、この某人傑は佐久間象山ではなく、清川八郎のことだという)。

象山だと思われるある人傑は、
「果たして君のため、国のため、あるいは人のために、身命を棄てんと欲するの志あるや否や」と何度もたずねてきた。あまりにしつこいので、

「君のため、国のため、あるいは人のために尽くす、ということをもって”無上の極道”とお考えのようですね」と鉄舟は反論する。
「あたりまえではないか。考えているだけではない。現在実行しているのだ」
「自負、自慢、うぬぼれ心にほかならない」と、鉄舟がいうと、”ある人傑”は、
「お前のいう自負、自慢、うぬぼれとは何事だ!」と大いに憤激した。
鉄舟は卑近な例をあげる。つまり、

「先生の家に召使いもいるでしょう。もし彼らが、朝晩忠実にあなたにつかえる道は、まさに君国のために奉公する所だとすれば、あなたと彼らの優劣をいかなるものとおもわれるか」と問い、
「人それぞれ自分が行うことを、君のため、国のため、人のためだと飛躍させて、尊大になるのは、口実としかいえない」
と、このようにいえば、人傑は言葉を失ったそうだ。それ以降、鉄舟に対する態度が変わったらしい。

 俗物として斬られる

鉄舟は見識ある人物だから、象山を納得させることができたが、大抵の人はその発言と気合いに呑まれてしまった。久坂や中岡にしても、その該博な知識に圧倒されている。しかしどうも象山には、圧倒するため論ずるようなところがあったらしい。それで高等な人物だと理解されず、俗物と誤解され、ついには斬られてしまった。(暗殺した河上彦斎は、象山が浪人の捕縛にかかわっていると思っていた。後で象山の人物を知り、愕然とし、以降暗殺をやめてしまったという)


彼が存分に能力を発揮できなかったのは、このような尊大なところがわざわいしたからだと思われる。