天才と無意識の関係についてゲーテの見解
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天才はすべて無意識になす
芸術創造における意識と無意識の働きについてシェリングと論争したシラーは、ゲーテに意見を求める。それについてゲーテは、
およそ天才が天才である限りそのなすところはすべて無意識になされると思います。天才的な人間は、熟慮を重ね、確信をいだいて、知的な行動をすることもできます。けれどもそれはみな副次的に起こるにすぎません。
と、シラーの意見を肯定するだけではなく、発展させている。後年、エッカーマンに対して、
「(文学には)まったくデモーニッシュなものがある。しかも無意識な作品にはとくそうだ。そういう作品は、いっさいの悟性も理性も、寸たらずで役に立たないのだが、だからまた、思いもおよばぬほどの影響を与えるのだ」(エッカーマン『ゲーテとの対話 』)
と、デモーニッシュと無意識を結びつけて説明しています。デモーニッシュについてはこちらの記事をどうぞ→『ゲーテもおそれたデモーニッシュ(魔神的)なる力 』
ウェルテルが生まれた瞬間
「無意識」をおもんじるのは『若きウェルテルの悩み 』を創作したときの経験からきている。
当時ゲーテは「自殺」ということを真剣に考えていた。いな、決行しかけていた。ナイフを胸に突きあて、死ねない、と知り、みずからを捉えている暗い衝動を材料にして、創作するべきだ。それこそが、『黒い試金石』から逃れる手段だとした。内面には材料が豊富にあった。しかし、形にできなかった、と『詩と真実』にある。
突然、私は、イェルーザレムが死んだという知らせを聞いた。そして、一般的な風説が伝わった直後に、早くも私は事件の最も精確にして詳密な記述を知った。その瞬間に「ウェルテル」の構想が発見されたのである。全体があらゆる方面から寄り集まって、一つの堅固なかたまりとなった。あたかも、まさに氷点にある壷中の水が、実に微細な振動によってたちまち堅氷と化するように。(ゲーテ『わが生涯より―詩と真実抄』)
イェルーザレムは、判事の人妻に恋していた。そしてピストルで自殺する。このように、構想は無意識的に発見された。意識して形にすることができなかったが、ひとつの事件によって、着想がむすびつき、偉大な作品が生まれたという。
リルケにも似たような話がある。リルケは『マルテの手記 』以後、創作が断絶されたそうだ。長い年月をへて『ドゥイノの悲歌 』が生み出されたのは、自然のうちに一つの啓示を見いだしたからだった。(落葉する瞬間だったと記憶しているけれど、手元に作品がないので、間違っているかもしれない)
僕はドイツ語の原文を読めないので『無意識』のなかにふくまれているニュアンスがあやしいけど、直観とか霊感とかインスピレーションなどといわれるものを感受できることじゃないかと考えている。
つまり無意識にして事物をつかむ感受性がなければいけない。くわえて、構想を表現する技倆も必要だろう。