頭と腕に勇ましい力こもれば、いずこにいてもわが家と同じ――吉田稔麿について
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いつまでも土地に釘付けになるな
思い切りよく、元気に飛び出せ
頭に腕に勇ましい力こもれば
いずこにいてもわが家と同じ
太陽をよろこぶところ
どのような憂いもない
われらが世界に散らばるように
そのためにこそ世界はこんなにも広いのだ(ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』)
吉田稔麿についての昔メモしたものを見ていると、上のゲーテの詩と似ている言葉があった。
「我れは天下の厠養《しよう》(めしつかい、世話するもの)なり、いかなる処もわが家にあらざるはなし」
とある。出典を忘れてしまったけれど、この記事の一番下に掲げる、参考資料のいずれかだろう。
足軽の家にうまれた吉田稔麿は、高等な人物であることが早くからあらわれていた。13歳のとき、「参勤交代に同行したい」と、自分の意思で江戸へ。嘉永六年のこと。つまりペリーが軍艦を率いて浦賀に来たとき、稔麿も江戸にいた。
江戸は驚天動地の騒ぎとなった。稔麿がどんなふうに思ったかはわからない。が、それから13人の師につき、修練している。このころ、国事に奔走することを覚悟したのかもしれない。萩にもどり、松陰に師事することになる。
安政の大獄の前に、稔麿は家系図を書いている。「国のために死ぬ覚悟がある。だから家は妹につがせる」として、自らは国事に奔走して死んだ、と書いていたそうだ。
松陰が刑死したあと、吉田稔麿は出奔する。名前と出自を偽り、江戸の妻木田宮という旗本の家でつかわれた。そこで、幕府の方針を内部から探り、できるかぎり変革させようと志した。実際、稔麿の才覚は、妻木に認められていた。が、長州と幕府のあいだが悪化し、稔麿は帰国する。その後、馬関戦争に参加し、最期は池田屋の事件に巻き込まれ死んだ。近藤勇の日記には、「その死最も天晴れ、後世に学ぶべき」と稔麿を記している。
参考資料
来栖守衛『松陰先生と吉田稔麿 増補』