前回の記事で、伊藤博文が「大久保公は専制主義の人ではない」と述べていたことに触れた。そこで今回は、『甲東逸話(勝田孫弥編)』『伊藤博文直話』などから、伊藤博文が語る立憲政治における大久保公の実像に迫りたい。 世間の大久保観に対する反論 伊藤…
以前の記事で触れたように、西南戦争が勃発した頃、陸奥宗光は政府転覆を画策していた。陸奥の目的は、この擾乱に乗じて藩閥政治家を打倒し、立憲主義の木戸孝允をたて、進歩派の板垣、後藤とともに新政府を組織することにあった。そして標的は、藩閥政治家…
明治2年頃、大久保公が松方正義の首を助けたと前回の記事で紹介したが、明治6年にはその松方正義に対して死を勧めている。一見すると正反対の態度であるが、どちらも大久保公の政治信条に反したものではなく、公自身がいかなる態度で政局に臨んでいたかが…
松方正義の述懐によれば、廃藩置県の建議書を大久保利通に見せたところ、「(薩人に)この書を見せるな、また決してこれを口にするなかれ、このことがわかると、あなたが廃藩置県を建議したというて、首を刎ねられるぞ」と注意されたという。 後年、この大久…
幕末の大宰相阿部正弘の言行を『阿部正弘事績』から抜粋し、現代文に改めて紹介。 風采 当時阿部正弘に接した家臣が、その風采について次のように記している。 「身長は中背にして肥満し、色白く、眼涼やかに、髪黒く麗しく、面相つねに春のごとく賑わしく、…
阿部は安政4年4月頃から体に異常を感じはじめ、5月には胸が痛み、そして6月17日ついに病没した。享年39歳であった。 このとき鹿児島に帰国中だった島津斉彬は阿部の訃報に接し、「阿部を失いたるは天下のために惜しむべきなり」と歎息したと伝えられ…
前回の記事で触れたように、将軍家と島津家の縁談が持ち上がったとき、大奥側では側室として迎えるつもりだった。それに反対したのが阿部正弘で、側室という大奥側の意見を取り消させ、無事に篤姫を正室として輿入れさせた。この一件は阿部正弘の事績におい…
徳富蘇峰は幕府と薩摩の縁談が持ち上がったことは将軍継嗣問題のためでなかったことを看破していた。そして芳即正氏が安政元年頃に書かれた「御一条初発より之大意」をみつけたことでこの縁談が嘉永3年に持ち上がっていたことが判明し、それによりこの縁談…
大隈重信は維新三傑にしばしば言及しているが、木戸や大久保を称揚する一方で西郷については冷評していることが多い。『大隈伯昔日譚』(明治二十八年)では「政治上の能力は果たして充分なりしや否やという点については、頗るこれを疑うのである」と語り、…
前回の記事では大久保利通が西園寺公望にむかって「卿等の時代になれば藩閥の問題が政治に少なからず面倒を惹起することであろう」と注意を与えていたことを書いたが、その大久保自身も藩閥の弊害を最小限にすべく尽力していたと感じられる。それはこれまで…
「野に遺賢なし」とは東洋の政治哲学における理想である。大久保利通はこの理想を実現させるべく人材登用、人材養成に力を入れていた。明治元年、岩倉具視宛の書中で以下のように書いている。 公卿若年の御方三四名、諸藩より七八名、極めて御精選を以て、英…
東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢し、海軍大臣として日露戦争を勝利に導いたことで知られる山本権兵衛。彼は維新前から俊英として知られ、大議論家でもあった。しかしそんな彼ですら、大久保の威厳には敵わなかったようである。高橋新吉はつぎのとおり述…
大隈重信は「趣味に乏しい人だった」が、囲碁は特別好きだったらしい(岡義武『近代日本の政治家』)。 photo credit: igo with skeleton stones from kobayashi satoru via photopin (license) 大隈が見た元勲らの碁 大隈はあるとき維新の元勲たちの碁の打…
今回紹介する逸話は『甲東逸話』に載せられているもので、明治14年大隈が辞職したとき、大隈邸に寓居していた西幸吉に語ったことだという。 大隈が辞職したことに驚いた西が「国家のために甚だ遺憾である」と述べたところ、大隈はつぎのように語りはじめた…
副島種臣が養子にすることを望み、木戸孝允をして「後世恐るべしはこの子なり」と言わしめたほどの秀才だった佐々友房。もしも彼が東京に留まり副島種臣に薫育されたならば才徳兼備の一大人物になっただろう。あるいは、才徳兼備とまでいかなくとも、後年の…
中井弘(ひろし/ひろむ)は薩摩出身の人物としてはかなり風変わりな経歴で、面白い逸話が豊富な人物である。しかも彼は桐野利秋に認められ、桐野の庇護を受けていた。そのため彼の伝記『中井桜洲』には、あまり知られていない桐野の人間味や中井に利用され…
橋本左内と同年に生まれ、ともに藩学明道館の幹事を務めた堤正誼が『橋本左内言行録』で談話を述べているので要約して紹介する。 橋本左内の身長と容貌 橋本左内の身長は五尺(151.1㎝)で色が白く痩せて優しい婦人のような容姿だったことはよく知られている…
中村半次郎(後年の桐野利秋)は「人斬り半次郎」と呼ばれ、当時その名を知らぬ者がいない存在だった。 白柄朱鞘の和泉守兼定を腰に帯びて、立派な体躯に絹布をまとい京の大道を闊歩し、凜々しい眉の下から凄まじい眼光を放つ。それにくわえて「人斬り半次郎…
徳川慶喜が大政奉還したことにより、王政復古の大号令が発せられ、明治の新政府が樹立された。 この新政府にあって徳川氏の立場を弁護しつづけた一人が雲井龍雄であった。徳川氏が朝敵とみなされていることに憤慨した雲井は、上書して冤を訴えるも聞き容れら…
明治時代に殖産興業のために尽力した佐々木長淳(ちょうじゅん/ながあつ)は、幼いころから橋本左内と親交があった。長淳が78歳のときに語った橋本左内の思い出が『橋本左内言行録』に載せられている。左内の人物像を知る貴重な証言なのでここに要約して…
安政三年、西郷隆盛は本格的に重用されはじめた。 七月九日には斉彬から書状を託され水戸へむかっている。これは徳川斉昭への書簡を届けるだけではなく、書面だけでは伝えきれない秘事を水戸藩の重臣に授けるきわめて重要な任務だった。 徳川斉昭の活路を開…
佐賀の乱が起こった明治7年、山岡鉄舟は密命を帯びて鹿児島を訪れている。このとき西郷隆盛と語りあい旧情をあたため、昔と変わらず高潔な志を宿していることを知り、西郷が政府打倒など考えていないと確信した。 その三年後、事西郷の志と違って西南戦争が…
鹿児島出身であり福沢諭吉に親炙した山名次郎は、国民協会を創設したころの西郷従道とともに各地を歩き、その人柄を深く観察することができたと『偉人秘話』で述べている。 西郷従道の人柄 元来(従道)侯は、容貌魁偉躯幹雄大にして、つねに顔色艶々しく、…
ルソーの『社会契約論(民約訳解)』を翻訳したことで知られている中江兆民(篤介)は、明治4年に政府留学生として渡仏している。 中江兆民が留学できたのは、大久保利通に海外で学問する熱意を訴えたからだった。 中江の熱意 土佐藩の足軽であった中江は、…
島津斉彬はかつて、「西郷だけは薩国貴重の大宝である。しかし独立の気象があるので彼を使えるのは私だけだろう」と語っていた。 後年、島津久光が藩の権力を握り率兵上京を計画したとき、西郷が反対したことを思いあわせれば、斉彬は西郷の性質を看破してい…
「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である」 という福地の大久保評は、Wikipediaにも載っているので、よく知られているとおもう。しかし前述の文は大久保評の一部分でしかなく、その後に人間的な温かさについて触れていることはあまり知られてい…
本書に序文を寄せている夏目漱石は、池辺三山との出会いを回想して、西郷のように感じたと書いている。 池辺君の名はその前から承知して知っていたが、顔を見るのはその時が始めてなので、どんな風采のどんな恰好の人かまるで心得なかったが、出て面接して見…
新渡戸稲造が台湾に奉職することになったのは、児玉源太郎(台湾総督)、後藤新平(民政長官)に要望されたからだった。 新渡戸は二人との面識はなく、二人が要望した理由もわからなかった。 後藤新平はおなじ岩手出身とはいえ彼は旧仙台藩で、新渡戸は旧南…
本書は明治以前に医学、植物学(本草学)、天文学などで功績のある人物が紹介されています。 児童の雑誌のためにまとめられた書籍ですから、平易な文章で書かれていて、とてもわかりやすいです。(森銑三氏の文章が好きな自分としては、ややもの足りない感じ…
自分が理解されるのは千年後だ、と徳富蘇峰(とくとみ そほう:徳富猪一郎)は自負していたそうですが、現段階では彼の再評価がおこなわれるどころか、著作すら入手しがたい状況です。 大型書店を覗いてみても「吉田松陰」ぐらいしか見かけないのではないで…