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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

斉彬に重用されてからの西郷隆盛の活動

安政三年、西郷隆盛は本格的に重用されはじめた。 七月九日には斉彬から書状を託され水戸へむかっている。これは徳川斉昭への書簡を届けるだけではなく、書面だけでは伝えきれない秘事を水戸藩の重臣に授けるきわめて重要な任務だった。 徳川斉昭の活路を開…

山岡鉄舟の西郷隆盛評

佐賀の乱が起こった明治7年、山岡鉄舟は密命を帯びて鹿児島を訪れている。このとき西郷隆盛と語りあい旧情をあたため、昔と変わらず高潔な志を宿していることを知り、西郷が政府打倒など考えていないと確信した。 その三年後、事西郷の志と違って西南戦争が…

西郷従道の人柄と処世訓

鹿児島出身であり福沢諭吉に親炙した山名次郎は、国民協会を創設したころの西郷従道とともに各地を歩き、その人柄を深く観察することができたと『偉人秘話』で述べている。 西郷従道の人柄 元来(従道)侯は、容貌魁偉躯幹雄大にして、つねに顔色艶々しく、…

大久保利通と中江兆民

ルソーの『社会契約論(民約訳解)』を翻訳したことで知られている中江兆民(篤介)は、明治4年に政府留学生として渡仏している。 中江兆民が留学できたのは、大久保利通に海外で学問する熱意を訴えたからだった。 中江の熱意 土佐藩の足軽であった中江は、…

独立の気象がある西郷隆盛と大見識をもって服従させた島津斉彬

島津斉彬はかつて、「西郷だけは薩国貴重の大宝である。しかし独立の気象があるので彼を使えるのは私だけだろう」と語っていた。 後年、島津久光が藩の権力を握り率兵上京を計画したとき、西郷が反対したことを思いあわせれば、斉彬は西郷の性質を看破してい…

『冷血と温血』福地源一郎の大久保評

「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である」 という福地の大久保評は、Wikipediaにも載っているので、よく知られているとおもう。しかし前述の文は大久保評の一部分でしかなく、その後に人間的な温かさについて触れていることはあまり知られてい…

池辺三山著『明治維新三大政治家(大久保・岩倉・伊藤論)』

本書に序文を寄せている夏目漱石は、池辺三山との出会いを回想して、西郷のように感じたと書いている。 池辺君の名はその前から承知して知っていたが、顔を見るのはその時が始めてなので、どんな風采のどんな恰好の人かまるで心得なかったが、出て面接して見…

台湾時代の新渡戸稲造と児玉源太郎

新渡戸稲造が台湾に奉職することになったのは、児玉源太郎(台湾総督)、後藤新平(民政長官)に要望されたからだった。 新渡戸は二人との面識はなく、二人が要望した理由もわからなかった。 後藤新平はおなじ岩手出身とはいえ彼は旧仙台藩で、新渡戸は旧南…

森銑三著『おらんだ正月』

本書は明治以前に医学、植物学(本草学)、天文学などで功績のある人物が紹介されています。 児童の雑誌のためにまとめられた書籍ですから、平易な文章で書かれていて、とてもわかりやすいです。(森銑三氏の文章が好きな自分としては、ややもの足りない感じ…

Google Play ブックスで無料で読める徳富蘇峰の著作について

自分が理解されるのは千年後だ、と徳富蘇峰(とくとみ そほう:徳富猪一郎)は自負していたそうですが、現段階では彼の再評価がおこなわれるどころか、著作すら入手しがたい状況です。 大型書店を覗いてみても「吉田松陰」ぐらいしか見かけないのではないで…

西郷隆盛の藩政改革を制止した島津斉彬

島津斉彬の男児は『高崎くずれ』の頃に相次いで亡くなっている。この不幸は、お由羅側(久光擁立派)が呪詛したためだという風説があり、西郷もそれを信じて疑わなかった。 そして嘉永七年(安政元年)七月二十四日、当時六歳だった虎寿丸(とらじゅまる)が…

水戸側の人物と交流して薩摩藩の改革が必要であると実感した西郷隆盛

前回書いたとおり西郷隆盛と藤田東湖は互いに認めあい、国政改革の同志として親交していた。東湖の紹介により、江戸にいた志士と交わるようになる。当時の西郷に影響を与えたのは、水戸藩の人物が多かったようである。 水戸藩の俊傑たち 戸田忠敬(とだ ただ…

西郷隆盛と藤田東湖の関係

海江田信義が藤田東湖と面会したのは嘉永6年だった。つまり西郷が東湖と面会する1年前である。 東湖は、「大事業をなす人物が必要だ。薩摩の人物はどうであるか」と海江田に訊いている。 海江田信義は、西郷隆盛と大久保利通のことを語ると、 「二人は何歳…

西郷隆盛の生涯

西郷隆盛の生涯に関する記事のまとめ 1827年(文政十年)12月7日、下加治屋町(しもかじやまち)に生まれる。 父は吉兵衛(きちべえ)、母はマサ。先祖は菊池武光だとされる。 少年時代 13歳のときに友達と喧嘩して右腕を斬られ(故意か事故かは不…

大久保利通の生涯

大久保利通の生涯に関する記事のまとめ 1830年(天保元年)8月10日、大久保利世の長男として生まれる。生まれた場所は「高麗町」だというが、幼年のころに加治屋町に移住したことから誕生の記念碑も加治屋町に建てられたと『大久保利通伝』に書かれて…

島津斉彬に庭方役を命じられた西郷隆盛

襲封した島津斉彬は、藩士に意見書を提出するようにすすめた。広く意見を求めて、すぐれた人材を抜擢するためだった。 西郷隆盛はこれに応じて藩政改革や農政改革についての意見書をこまめに提出していたようで、後年の西郷はつぎのように語っている。「自分…

「この忠死の列に加わらなかったことを恨む」――高崎くずれに憤慨した西郷隆盛

西郷隆盛が23歳のとき「高崎くずれ(お由羅騒動)」といわれる政変が起こる。西郷は処罰を受けなかったので、大久保利通のように一家が閉門することもなく、弾圧後も郡方書役として勤務しつづけている。 高崎くずれの頃の大久保利通の苦心 - 人物言行ログ …

西郷隆盛のルーツと遺伝について

西郷家は菊池の一族 西郷隆盛は「菊池源吾」という変名をつかったけれど、これは”吾(われ)の源(みなもと)は菊池氏”という意味だという。(『西郷隆盛 命もいらず 名もいらず』) 菊池氏といえば南朝の忠臣・菊池武光がよく知られている。『日本三大決戦…

篠原国幹と池辺吉十郎の沈黙対決

不言実行は武人の美学。それなので薩摩藩の人物には寡黙な人がおおい。大久保利通もそうだし、川路利良、東郷平八郎……しかし彼らも篠原国幹(しのはら くにもと)にくらべれば、口数が少ない程度にしか思えないかもしれない。 篠原は片言たりともゆるがせに…

島津斉彬の大度に感銘をうけた大久保利通

島津斉彬は、幕末随一の英君である。西郷隆盛が斉彬に薫陶をうけたことはよく知られている。大久保利通もまた斉彬の感銘をうけ、大人物となった一人だった。 島津斉彬の宏量大度 島津斉彬が薩摩藩主になったのは嘉永4年(1851)。斉彬が43歳、大久保…

島津斉彬を藩主とするために計画を練っていた大久保利通

前回、書いたとおり謹慎中の大久保は、表向きは固く門を閉ざしていたが、秘密裡に有志者と交流していた。彼は、君側の奸をのぞき、英明なる斉彬を藩主に立てようと暗躍していたのである。 <a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/25/070000" data-mce-href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/25/070000">高崎くずれの頃の大久保利通の苦心 - 人物言行ログ</a> 精忠組の誕生 こ…

高崎くずれの頃の大久保利通の苦心

大久保利通が21歳(このころ正助と名乗っていた)のとき、父・大久保利世が「高崎くずれ(お由羅騒動)」に連座して、喜界島に遠島。そのため大久保家は閉門を命じられ、利通も記録所書役を免職している。 <a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/20/100142" data-mce-href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/20/100142">大久保利通の父・大久保利世について - 人物言行</a>…

大久保利通の外祖父・皆吉鳳徳は日本初の西洋式帆船を建造した奇傑

大久保利通の母・ふく子の実家は、皆吉氏であり、代々有為の人物を輩出していた。なかでも利通の外祖父にあたる皆吉鳳徳(ほうとく)は、奇傑としてしられ、身体長大にしてあたかも力士を見るがごとく偉丈夫だった。(『大久保利通伝』) 伊呂波丸建造 医者…

大久保利通の父・大久保利世について

『大久保利通伝』によれば利通の父、大久保次右衛門利世(としよ:号は子老)は体格は大きいわけではないがかなりの肥満体で貫禄があった(意訳)、というように書かれている。 大久保利通は身長が高かく痩せていけれど、これは母に似たものらしい。 無学の…

禅を修業し胆力を鍛えた大久保利通『難来る、難能く我を鍛える』

吉井友実の叔父、無参禅師(むさんぜんじ)は、薩摩における有名な高徳の禅僧だった。士族を召し上げられて出家したと伝えられる。 大久保利世(利通の父)は、無参禅師について禅を学び、親しく交わっていた。こうした関係から、自然と大久保利通も参禅する…

児玉源太郎の部下への思いやり

児玉源太郎がまだ連隊長だったころ、炊事係を怒鳴り散らしたことがある。 「空腹で疲労がなおるものではない。何をぐずぐずしている」 これは演習を終えた部下の身体のことをかんがえて叱ったものである。彼は普段から、「明日の演習のために、すみやかに宿…

中村敬宇の根気

中村敬宇(正直)といえば『西国立志編 』(サミュエル・スマイルズの『Self Help』の邦訳)の一文、「天は自ら助くる者を助く」などで知られる。また彼の『敬天愛人説』が西郷隆盛に影響を与えたともいわれている。 彼は慶応二年に林董らと英国へ留学した。…

才が鈍らなかった陸奥宗光と児玉源太郎

石黒忠悳は、児玉源太郎伯は非凡の人であったと回想して、つぎのように語っている。 真にこの人は偉い人だと思う人は滅多にないが、児玉伯は実にその人です。人はよほど注意せぬと地位が上るにつれて才能が減ずる。私の知っている人で大臣などになったのも少…

座牢でイカを釣った西郷隆盛

西郷隆盛が沖永良部島の座牢にいたころ、釣り具の手入れをしていたことがある。それを見ていた土持政照(間切横目:看守)は、見馴れない道具があったので、「どのように用いる釣り具か」と西郷に訊いた。 「座敷にいながらイカが釣れる不思議な道具である」…

王陽明の逸話と格言

photo credit: Qiandaohu (1000 Islands Lake - Zheijiang Province, China) via photopin (license) 落第したときに仲間を励ます 25歳のとき、陽明は2度目の進士の試験をうけて落第した。このとき落第したのを恥じているものがいた。陽明は彼らを慰める…

高杉晋作の弟子になった田中光顕

田中光顕は、高杉晋作に弟子入りしている。その経緯と師高杉からの教訓が『維新風雲回顧録』で述べられているので紹介したい。 土佐出身の田中光顕はどうして高杉晋作の弟子になったのか? 奇兵隊を創設し高杉晋作が陸海軍総督ともいうべき立場だったとき、…

児孫のために美田を買わず

児孫のために美田を買わず―― この詩句は西郷の清廉さを表現しただけではなく、自らを戒める言葉でもあり、「この言葉に違えるようなら、我は言行一致せぬものの譏(そし)りを受くるも可である」と西郷は語っていた。 つぎに示すエピソードは、この詩が彼の…

禁門の変で自刃した久坂玄瑞の悔い

久坂玄瑞は、諌死者について念入りに研究していた。著名な人物はもちろんのこと、ほとんど名の知られていない人物についても、敬意を払って記事を読み、事細かく記録していた。 生死を顧みず、忠義のために諫言する。そうした人物に薫陶を受けていた久坂は、…

松平春嶽の大久保利通、木戸孝允評

松平春嶽(まつだいら しゅんがく)は大久保利通、木戸孝允を以下のように評している。 大久保利通は古今未曾有の英雄と申すべし。威望凜々霜のごとく、徳望は自然に備えている。木戸、広沢の如き者にあらず、力量にいたっては世界第一と申すべし。余が大久…

前島密の江戸遷都論と大久保利通の果断

大久保は創案する人ではなく、すぐれた意見を採りいれて、それを実現に運ぶところに特徴があった。池辺三山はつぎのように書いている。 大久保には、自分独りで考えた方針主義というものは、どうにも見当たらない。尊王、討幕、開国進取、遷都、廃藩置県、西…

最善を得ざれば次善を取り、次善を得ざれば三善を取る――大阪遷都論にみる大久保利通の政治力

大久保利通の大坂遷都論は、大政奉還以上の衝激だったと佐々木克氏は語る。その衝激の大きさのために公卿の反発は大きく、廟議でも否決された。それでも大久保は屈しなかった。表面的に妥協しながらも強固な意志を貫き、臨機応変に対処し、目的としていたと…

大山巌の学問と韜晦

大山巌は、兵士に学問させるか否かで桐野利秋と言い争ったことがある。 「兵隊の調練がないときは、遊ばせておくよりも学問をさせたほうが良かろう」というのが大山の意見だったが、「兵隊に学問はいらぬ」と桐野は反対した。 そこで大山はナポレオンが学問…

岩倉具視を罵倒し、大久保利通を刺そうとした桐野利秋

西郷隆盛の腹心として知られる桐野利秋は、岩倉具視を罵倒し、大久保利通を刺そうとしたことがある。これは西郷の朝鮮派遣が実行されないことに憤ったためであるが、西郷はこのために苦しめられたという。 西郷の主張に共鳴する そもそも桐野利秋は、西郷隆…

高杉晋作にはどうしてもかなわない――とある医者の話

「俺は残念ながら、どうしても高杉にはかなわない。それもどこがどうという訳でもないが、いつでも奴には押さえつけられるような気分がして、自然負けるようになる。これは実に不思議でならぬ。どう考えてみてもその理由がわからぬ」と福岡のある医者は、人…

明治六年の政変と大久保利通

林董が大久保利通を評して、「大久保は明治年間のみならず、日本の歴史中まさしく有数の政治家である」と語っていたことは以前の記事に書いた↓ &amp;lt;a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/04/17/103000" data-mce-href="http://hikaze.hatena…

西郷隆盛の隠遁癖——美点と欠点

横井小楠は西郷隆盛のことを、「どこやら西行に似ている」と、評したという。それは西郷の隠遁癖を看破したものである。その隠遁癖ついて大久保利通、牧野伸顕父子が語っているところを以下にまとめてみた。 人々の手本となった隠遁癖 池上という西郷派の幹…

西郷隆盛と犬の話

上野公園の西郷隆盛像が薩摩犬をつれていることからもわかるように、西郷隆盛は愛犬家だった。西郷と犬の面白い逸話があったので、『大久保利通 』『幕末・明治名将言行録【詳注版】』から紹介したい。 大久保から妾を持つことをすすめられる 西郷と大久保が…

榎本武揚と談じて、旧幕府軍に加わった林董

イギリスに留学していた林董は、戊辰戦争が勃発したため帰国する。 帰国の途次、セイロン島で読んだ新聞により上野で彰義隊が奮戦しているのを知ったようだが、この時点で旧幕府勢力に加わるつもりがあったかは不明である。刀を売却し渡米しようとしていた彼…

幕府の命を受けイギリスに留学する——林董

英語を学んだ話の続きで、今回は林董の英国留学について。 &lt;a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/05/03/151710" data-mce-href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/05/03/151710"&gt;日英同盟を締結させた林董の少年時代 - 人物言行…

日英同盟を締結させた林董の少年時代

林董(はやす ただす)は日英同盟を締結させた外交官として知られる。彼の著作『後は昔の記 他―林董回顧録 』を読むと、生まれた家庭、育った環境により外交官となることは運命づけられていたようにおもえる。 父・佐藤泰然 林董の父・佐藤泰然(さとう たい…

西南戦争のとき大久保の代理をつとめた前島密

近代郵政の父として知られる前島密(まえじま ひそか)は、西南戦争のときに大久保の代理をつとめて内務にはげみながら薩軍に勝つため苦心していた。『前島密―前島密自叙伝 』のなかから逸話を紹介する。 大久保の代理となる 明治十年二月某日、大久保の使い…

林董が語る西南戦争のときに見せた大久保利通の果断

林董(はやし ただす)は、西南戦争当時を回想して、大久保利通の偉大さを認知したのは反乱が勃発したときであったと語っている。 『後は昔の記 他―林董回顧録 』に収録されている「回顧録」「後は昔の記」の内容を整理して、大久保を日本史上有数の政治家と…

万物一体となり永生する西郷隆盛――敬天愛人について4

西郷隆盛は、西南戦争によって敗亡したのではない。それどころか永生の道を見いだしている。 彼は城山陥落とともに介錯され、対立した大久保もその数ヶ月後に紀尾井坂で暗殺されるが、その後の日本において、西郷の信奉者が多数いること、大久保の政策を引き…

西郷の天命観――敬天愛人について3

寺田屋事件と西南戦争について考察したい。 どちらも西郷隆盛を苦慮させた事件であり、その衆望のために悲劇に巻きこまれたともいえる。あるいは見方を変えれば寺田屋事件により天理一体を確信し、西南戦争により万物一体となる境地を貫徹したといえるかもし…

天理と一体となる西郷隆盛――敬天愛人について2

道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ(南洲翁遺訓二十一)。 前回、敬天愛人の「愛人」について触れたので今回は「敬天」について考察してみたい。 西郷隆盛の慈愛――敬天愛人について1 - 人物言行ログ…