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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

筆を執ることを嫌った大隈重信

大隈重信が筆を執らなかった理由は諸説ある——字が下手であるためだったとか、それほど下手ではなかったが席次の低いものに能書きがいたためだったとか——が、とにかく、5年や10年その邸宅に出入りした者ですら、大隈が筆を執るところは見れなかったといわ…

有馬藤太と桐野利秋の関係

近藤勇を降参させ、助命を訴えたことで知られる有馬藤太。彼は、桐野利秋と大の親友であり、その関係を次のように語っている。 桐野と私は最も親しかった。そして西郷先生は桐野と私を最も可愛がられた。いかなる秘密な事件でも大抵は私共二人だけには御知ら…

伊藤博文の私人としての一面——西園寺公望談

前回に引き続いて『園公秘話』から。今回は西園寺公望が見た、伊藤のプライベートの一面や逸話などを紹介したい。 奮発 西園寺は、伊藤は必要なときには勉強もしたが「普段は決してしないマア偉い勉強家とは思いません」と述べ、「個人としてつきあって見ま…

伊藤博文の政治家としての一面——西園寺公望談

『園公秘話』の付録として掲載されている「西園寺公の伊藤公観」から。これは大正3年に西園寺公望が、高橋義雄(茶人・高橋箒庵)に語ったことを速記したもので、それから20年以上秘蔵されていたが、遺言により西園寺を研究していた安藤徳器に托されたも…

大山巌元帥の逸話——西村文則著『大山元帥』

西村文則氏の『大山元帥』に載せられている逸話から、現代表記に書き換え、一部要約しながら紹介したい。 元帥の散歩振り 元帥は非常に散歩が好きであった。まず午前中は、自邸の木立深き間を約一時(いっとき)もあるいて、午後は茶縞背広服を着て、裏門か…

伊藤博文に子分が少なかった理由——金子堅太郎談

伊藤博文に子分といえる存在が少なかったことは同時代の政治家が証言しているところである。 山縣有朋は、「伊藤は善い人だが自分の輔佐の人を得なかった」と評し、西園寺公望は「自分が聡明過ぎておったために人を使ってはもどかしいのであったろうと思われ…

大隈重信による木戸・大久保・西郷評――『大隈侯昔日譚』

大隈重信は維新三傑にしばしば言及しているが、木戸や大久保を称揚する一方で西郷については冷評していることが多い。『大隈伯昔日譚』(明治二十八年)では「政治上の能力は果たして充分なりしや否やという点については、頗るこれを疑うのである」と語り、…

日本統一のために人材を登用した木戸孝允

前回の記事では大久保利通が西園寺公望にむかって「卿等の時代になれば藩閥の問題が政治に少なからず面倒を惹起することであろう」と注意を与えていたことを書いたが、その大久保自身も藩閥の弊害を最小限にすべく尽力していたと感じられる。それはこれまで…

碁の打ち方にあらわれた維新元勲の性格

大隈重信は「趣味に乏しい人だった」が、囲碁は特別好きだったらしい(岡義武『近代日本の政治家』)。 photo credit: igo with skeleton stones from kobayashi satoru via photopin (license) 大隈が見た元勲らの碁 大隈はあるとき維新の元勲たちの碁の打…

佐々友房と肥後気質

副島種臣が養子にすることを望み、木戸孝允をして「後世恐るべしはこの子なり」と言わしめたほどの秀才だった佐々友房。もしも彼が東京に留まり副島種臣に薫育されたならば才徳兼備の一大人物になっただろう。あるいは、才徳兼備とまでいかなくとも、後年の…

西郷従道の人柄と処世訓

鹿児島出身であり福沢諭吉に親炙した山名次郎は、国民協会を創設したころの西郷従道とともに各地を歩き、その人柄を深く観察することができたと『偉人秘話』で述べている。 西郷従道の人柄 元来(従道)侯は、容貌魁偉躯幹雄大にして、つねに顔色艶々しく、…

台湾時代の新渡戸稲造と児玉源太郎

新渡戸稲造が台湾に奉職することになったのは、児玉源太郎(台湾総督)、後藤新平(民政長官)に要望されたからだった。 新渡戸は二人との面識はなく、二人が要望した理由もわからなかった。 後藤新平はおなじ岩手出身とはいえ彼は旧仙台藩で、新渡戸は旧南…

児玉源太郎の部下への思いやり

児玉源太郎がまだ連隊長だったころ、炊事係を怒鳴り散らしたことがある。 「空腹で疲労がなおるものではない。何をぐずぐずしている」 これは演習を終えた部下の身体のことをかんがえて叱ったものである。彼は普段から、「明日の演習のために、すみやかに宿…