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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

幕末・維新

薩英戦争の笑話(奈良原家に砲弾が当たった話など)——市来四郎談(史談会速記録)

生麦事件、またそれに引き続く薩英戦争によって薩摩藩は「攘夷の先鋒」や「攘夷のチャンピオン(芳即正氏の表現)」とみなされ、攘夷急進派からもてはやされたのであるがそれは実態のともなわないものであった。そうした藩内の情況については市来四郎が詳し…

薩英戦争前の薩摩側の奇襲作戦

文久2年8月21日、生麦事件が起きた。これは大名行列の前を騎乗したまま横切ろうとしたイギリス人数名を衛士が斬りつけ、そのイギリス人のうちの一人リチャードソンが奈良原清*1によって斬殺された事件である。 イギリス政府は、幕府に謝罪書と賠償金10…

示現流について——東郷実政談(史談会速記録)

今回は『史談会速記録 合本22』の第151輯「東郷実政君の示現流剣法の由来附十六話」から、示現流にかかわる逸話を紹介したい。 東郷実政君略履歴 東郷実政君は通称六郎兵衛鹿児島県出身にして祖先以来旧藩主島津侯に仕へ世々示現流の武術師範たり君少壮…

篠原隊の不敬事件——文武硬軟二派の暗流

明治2年の10月24日、昭憲皇太后が御着京。翌日、弾正台から薩摩藩邸へ、「御用これ有りにつき、即時出頭せよ」と命令が下った。 薩摩藩邸御留守居副役の有馬藤太が出頭すると、大巡察佐久間秀脩(ひでなが)より、「この度、皇后陛下が鹿児島の旧装飾屋…

村田新八と仏罰——滴水和尚の予言

明治10年、山岡鉄舟は天龍寺に参詣し、禅の師匠でもあった滴水和尚と語り合った。話題は鹿児島のことに及び、「薩摩の陣中には村田新八殿が居るそうじゃな」と和尚が言った。 鉄舟は感慨深げに「左様、桐野、篠原等と一緒に西郷先生の片腕でございましょう…

山岡鉄舟の情欲修行

いかにして情欲を断てばよいかと問うものがあった。それに対して鉄舟は、「真個(ほんとう)に情欲を断ちたいと思うならば、今よりも更に進んで情欲の激浪のなかに飛び込み、鋭意努力してその正体がいかなるものかを見極めるがよい」と語ったたことがある。 …

自由民権派に対する山岡鉄舟の態度——人の追従すること能わざる卓見と遠識

山岡鉄舟の門下であった佐倉達山氏は『徳川の三舟』という私刊本を出版している。同書で氏は、鉄舟の豪傑振り、剣、禅、書に精通していたことを述べたあと、「斯く叙来ると、彼は単に精力絶倫の一鐵漢にして、政治の得失などには無関心かの如く思わはるるが…

山岡鉄舟と清河八郎の首級

文久3年4月13日、清河八郎が赤羽根橋で暗殺された。*1 清河暗殺の急報を受けた鉄舟は、即座に義弟石坂周造を呼びよせ、清河が所持している同志の連判状と清河の首級を奪ってくるように命じている。 周造が現場に着いた頃には、すでに町役人が警固し、検…

山岡鉄舟と清河八郎の問答——『某人傑と問答始末』

山岡鉄舟居士は『某人傑と問答始末』と題する自記を残している。この「某人傑」について『幕末の三舟―海舟・鉄舟・泥舟の生きかた 』では佐久間象山だと書かれていて、それにならって私も過去に記事を書いたのであるが、『高士山岡鉄舟居士』によれば「某人…

26杯のお汁粉を平らげた桐野利秋

幕末の頃、つまり桐野利秋がまだ中村半次郎と名乗っていたころの話。 photo credit: 花見こもち, ぎおん特屋, 原宿 via photopin (license) 京都四條畷の曙で、お汁粉26杯を平らげたことがあった。それに感心した店主は、 「手前ども開店以来いく年月のあ…

幕末の名宰相阿部正弘の言行

幕末の大宰相阿部正弘の言行を『阿部正弘事績』から抜粋し、現代文に改めて紹介。 風采 当時阿部正弘に接した家臣が、その風采について次のように記している。 「身長は中背にして肥満し、色白く、眼涼やかに、髪黒く麗しく、面相つねに春のごとく賑わしく、…

阿部正弘の死去とその影響

阿部は安政4年4月頃から体に異常を感じはじめ、5月には胸が痛み、そして6月17日ついに病没した。享年39歳であった。 このとき鹿児島に帰国中だった島津斉彬は阿部の訃報に接し、「阿部を失いたるは天下のために惜しむべきなり」と歎息したと伝えられ…

阿部正弘と幕薩縁談

前回の記事で触れたように、将軍家と島津家の縁談が持ち上がったとき、大奥側では側室として迎えるつもりだった。それに反対したのが阿部正弘で、側室という大奥側の意見を取り消させ、無事に篤姫を正室として輿入れさせた。この一件は阿部正弘の事績におい…

篤姫入輿と将軍継嗣問題

徳富蘇峰は幕府と薩摩の縁談が持ち上がったことは将軍継嗣問題のためでなかったことを看破していた。そして芳即正氏が安政元年頃に書かれた「御一条初発より之大意」をみつけたことでこの縁談が嘉永3年に持ち上がっていたことが判明し、それによりこの縁談…

中井弘と桐野利秋

中井弘(ひろし/ひろむ)は薩摩出身の人物としてはかなり風変わりな経歴で、面白い逸話が豊富な人物である。しかも彼は桐野利秋に認められ、桐野の庇護を受けていた。そのため彼の伝記『中井桜洲』には、あまり知られていない桐野の人間味や中井に利用され…

堤正誼談「橋本左内」――中根雪江や西郷隆盛の口まねをしていたことなど

橋本左内と同年に生まれ、ともに藩学明道館の幹事を務めた堤正誼が『橋本左内言行録』で談話を述べているので要約して紹介する。 橋本左内の身長と容貌 橋本左内の身長は五尺(151.1㎝)で色が白く痩せて優しい婦人のような容姿だったことはよく知られている…

桐野利秋が「人斬り半次郎」として畏れられていたころの逸話

中村半次郎(後年の桐野利秋)は「人斬り半次郎」と呼ばれ、当時その名を知らぬ者がいない存在だった。 白柄朱鞘の和泉守兼定を腰に帯びて、立派な体躯に絹布をまとい京の大道を闊歩し、凜々しい眉の下から凄まじい眼光を放つ。それにくわえて「人斬り半次郎…

山岡鉄舟に投げ飛ばされた雲井龍雄

徳川慶喜が大政奉還したことにより、王政復古の大号令が発せられ、明治の新政府が樹立された。 この新政府にあって徳川氏の立場を弁護しつづけた一人が雲井龍雄であった。徳川氏が朝敵とみなされていることに憤慨した雲井は、上書して冤を訴えるも聞き容れら…

「橋本左内の思い出」佐々木長淳談

明治時代に殖産興業のために尽力した佐々木長淳(ちょうじゅん/ながあつ)は、幼いころから橋本左内と親交があった。長淳が78歳のときに語った橋本左内の思い出が『橋本左内言行録』に載せられている。左内の人物像を知る貴重な証言なのでここに要約して…

山岡鉄舟の西郷隆盛評

佐賀の乱が起こった明治7年、山岡鉄舟は密命を帯びて鹿児島を訪れている。このとき西郷隆盛と語りあい旧情をあたため、昔と変わらず高潔な志を宿していることを知り、西郷が政府打倒など考えていないと確信した。 その三年後、事西郷の志と違って西南戦争が…

篠原国幹と池辺吉十郎の沈黙対決

不言実行は武人の美学。それなので薩摩藩の人物には寡黙な人がおおい。大久保利通もそうだし、川路利良、東郷平八郎……しかし彼らも篠原国幹(しのはら くにもと)にくらべれば、口数が少ない程度にしか思えないかもしれない。 篠原は片言たりともゆるがせに…

中村敬宇の根気

中村敬宇(正直)といえば『西国立志編 』(サミュエル・スマイルズの『Self Help』の邦訳)の一文、「天は自ら助くる者を助く」などで知られる。また彼の『敬天愛人説』が西郷隆盛に影響を与えたともいわれている。 彼は慶応二年に林董らと英国へ留学した。…

禁門の変で自刃した久坂玄瑞の悔い

久坂玄瑞は、諌死者について念入りに研究していた。著名な人物はもちろんのこと、ほとんど名の知られていない人物についても、敬意を払って記事を読み、事細かく記録していた。 生死を顧みず、忠義のために諫言する。そうした人物に薫陶を受けていた久坂は、…

榎本武揚と談じて、旧幕府軍に加わった林董

イギリスに留学していた林董は、戊辰戦争が勃発したため帰国する。 帰国の途次、セイロン島で読んだ新聞により上野で彰義隊が奮戦しているのを知ったようだが、この時点で旧幕府勢力に加わるつもりがあったかは不明である。刀を売却し渡米しようとしていた彼…

幕府の命を受けイギリスに留学する——林董

英語を学んだ話の続きで、今回は林董の英国留学について。 <a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/05/03/151710" data-mce-href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/05/03/151710">日英同盟を締結させた林董の少年時代 - 人物言行…

日英同盟を締結させた林董の少年時代

林董(はやす ただす)は日英同盟を締結させた外交官として知られる。彼の著作『後は昔の記 他―林董回顧録 』を読むと、生まれた家庭、育った環境により外交官となることは運命づけられていたようにおもえる。 父・佐藤泰然 林董の父・佐藤泰然(さとう たい…

早川勇を危難から救った中岡慎太郎、自ら斬られに行こうとした早川勇

「馬関の稲荷町へ女郎買いへ行こう」と、中岡慎太郎がすすめた。誘われた早川勇は、中岡慎太郎が遊里に足をふみこむ性分の人ではないので、怪しんで訊いた。「それは君に不似合いなことと思う。僕の気を引くためか。そんなことに心を奪われていると思うか」…

精神活発にし、危急に臨み、『明治維新』を『明治革命』に堕落させなかった勝海舟

「明治維新」が「明治革命」に堕落せずにすんだのは、旧幕府の徳川慶喜、勝海舟が内乱を最小限に抑えたことが与って力があった。 本音は不明ながら大西郷でさえ、 「徳川慶喜の首も、勝海舟の首も斬らねばならない」(西郷から大久保宛の書簡)と述べていた…

散歩しながら世上を観察した勝海舟

「民の声は神の声」という格言がユダヤ人のタルムードにあり、中国の古典『春秋左氏伝』には「民の欲する所、天必ずこれに従う」との記述がある。 勝海舟のつぎの談話もまた、上記二つの格言に通ずるものがある。 書生だの浪人だのという連中は、昔から絶え…

西郷隆盛と中岡慎太郎の会見

前々回の記事で書いた『高杉と西郷』の会見に関連して、今回は中岡慎太郎と西郷隆盛の会談について。 <a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2014/12/23/123000" data-mce-href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2014/12/23/123000">西郷と…

勝海舟の修行――敵の中に知己をつくった男

『本当に修業したのは、剣術(禅もふくまれるだろう)ばかりだ』と勝海舟はいっている。僕のなかで勝海舟は、航海や蘭学のイメージが濃かったので意外な気がした。 戊辰戦争のとき、勝と西郷が肝胆相照らし江戸攻撃が中止になる。それは勝の開明的な大局観の…

勝海舟についての雑文

柄に手をかけた刺客に、勝海舟は従容として言い放つ。 「斬るなら見事に斬れ。勝は大人しくしていてやる」 その一声は、刺客の度肝を抜き、刀を抜かせなかった。 この一事を振り返った勝海舟は、後年吉本襄に、「人間は胆力の修養がどうしても肝腎だヨ」と語…

尊大すぎた佐久間象山

佐久間象山は傑出した才能を持っていた。それにもかかわらず卓越した能力を政治に及ぼすことなく、非業の死を遂げた。なぜだろうか。 省〔ケン〕録 (岩波文庫 青 14-1) 作者: 佐久間象山,飯島忠夫 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 2001/04/05 メディア: …

佐久間象山――幕末一の洋学者であり天下の師と自負していた男

天下の師と自負していた男 象山は、幼少のときから賢かった。三歳のときの逸話が「おらんだ正月」にある。 お寺の門山あった「禁葷酒」という石の表札を見て、文字を暗記した象山は、負ぶってい乳母の背中に「禁」の字を指先で書いた。驚いた乳母は、家に帰…

頭と腕に勇ましい力こもれば、いずこにいてもわが家と同じ――吉田稔麿について

photo credit: nosha via photopin cc いつまでも土地に釘付けになるな 思い切りよく、元気に飛び出せ 頭に腕に勇ましい力こもれば いずこにいてもわが家と同じ 太陽をよろこぶところ どのような憂いもない われらが世界に散らばるように そのためにこそ世…